藤山家においでよ

横浜のパワースポットと化した藤山家。施術、お料理、お話し会などを通じて『幸せに生きる』を実験、研究しています。

みんないろいろ大変なんだよなぁ…と思うんだ。と彼女は言った。

 

 

「みんないろいろ大変なんだよなぁ、って思うんだ。」

 

昨日そらさん(娘8歳。鬼カワ。)が少しだけ引きつった顔で私にそう言った。

私は「うん。そうだよねぇ。」と本気で心から答えた。

 

これはそらさんの学校の寮母さんの話しをしている時にそらさんから出た言葉だ。

 

そらさんの学校には3つ寮がある。

低学年(1年生から3年生まで)の子の寮、高学年の子の寮、中学生の寮と別れている。

それぞれに担当の寮母さんがいるのだけれど、その連携はとても見事で、どの寮母さんと話してもそらさんの様子をよく知っていてくれている。

そしてとても優しい。

私の印象としてはみんながとても優しい印象だ。

 

今年度に入ってなのかもうちょっと後なのかはわからないのだけれど、ベテランの寮母さんが2人ほど辞めてしまい、新たに寮母さんが2人ほど入ってきたらしい。

(ほんとに学校のことも寮のことも必要以上には教えてくれないのですよ。そしてそらさんに聞いてもあまり詳しくは教えてくれないのです。←これはとても良いことだと私は思っています。)

 

1人の新しい寮母さんの話しを先日同じ学校のママさんから聞いたので、それをそらさんに確認していたのだ。

 

その新しい1人の寮母さんは公立学校の教員を長年やっていて、いろんな学校での仕事を経験しているらしい。

本当はそらさんの通っている南アルプス子どもの村学校でも教員として仕事をしたかったらしいのだけれど、どういう経緯か寮母さんになったそうだ。

その寮母さんは長年教職につかれていて、経験が豊富だ。

でもそれはいわゆる『普通』の学校での経験。

そらさんの通っている学校はいろんな意味で『普通』ではない。(まだまだ一般的ではない。という意味です。)

それゆえ、その寮母さんは苦労しているらしいのだとお友達ママさんは教えてくれた。

 

「彼女の中ではものすっごく優しくやっているらしいのよ。経験もたくさん積んでいるけれどそれはなるべく排除しようとしてるし、彼女的にはもんのすごく優しくやっているみたいなの。でもね「Yちゃん(←寮母さんの呼び名)は怖いって言われちゃうのよぉ…。どうしてなのかしらねぇ。むずかしいですよ…。」って言っててさぁ。

ほんとにあの学校で寮母さんとか大人(先生のこと)とかやるのって大変なんだろうなぁと思うんだよね。」

 

 

私たちは保護者だけで話す時、必ずこういう話しになる。

そらさんの学校では『押さえつける』なんてことは絶対にしないし、『頭ごなしに叱る』なんて言語道断だ。

ましてや『恐怖で従わせる』なんて愚の骨頂だ。

そうではなく、自主性を尊重する。

話しをじっくり聞く。

決めつけない。

大人に従わせない。

 

そんなことをとても大切にしている。

子どもに対してどう言葉をかけるか、いつでも対等に接しているか、いつだって真正面から見ているか、そんなことを常に真摯に考えている。ように感じる。

 

でもね、これって並大抵のことじゃないと思うのです。

だって私は「恐怖で従わせる」の教育を受けてきたし、「大人に従わせる」という先生がたくさんいる環境で育ってきたから。(もちろんそうじゃない人もいたけれど。)

ましてや私の父親なんて「黙ってお父さんの言うことを聞け!!」なんてことを言う人だったものですから、そういう教育しか知らないのよね。

だからふとした時には「ママの言うことを聞かなければ怒りますよ!」みたいな言い方になってしまうし、「そらちゃんがそういうつもりならママだって考えがありますよ!」みたいな脅迫じみた考えが浮かぶことなんてザラにある。

 

たった1人の子供に対してだってこれなのに、何人もの年齢の違う子供を相手にしているのだから想像するだけで頭が下がる。

 

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学校に行くときのでっかいリュック。この写真、好き。

 

そんな学校に、長年『普通』の学校で教員を務めた女性が寮母さんとして入ってきたのだ。

そりゃ苦労すると思うのよ。

 

私はその話しを昨日そらさんに聞いてみたのです。

 

 

「あのさ、Yちゃんって寮母さんっているでしょ?怖いの?」

 

私のこの直球の質問にそらさんは

 

「うん。怖いよ。」

 

と直球で答えた。

 

「そうかぁ。怖いのかぁ。たとえば?たとえばどんな風に怖いの?」

 

Yちゃんは努めて優しくしていると言っていたらしい。

それなのにあの学校の子に『怖い』と言われてしまうのはどういうことだろう?

 

「うーんとねぇ…たとえばさ、ふざけて遊んでて、IちゃんがKくんに『あいつぶっ殺してきて!』とか『あいつぶっ飛ばしてきて!』とか言ったとするじゃん。ふざけてだよ!遊びで言ってるだけなんだよ!そういうのをYちゃん(寮母さん)に聞かれちゃうと『えぇっ?!!そんなこと言っていいの?!!』とか言うんだよね。」

 

そらさんはちょっと呆れた顔でこう答えた。

 

私はそのそらさんの話しを聞いて「なるほどーーー!!」とすごく納得したのだけれど、これを読んでいるあなたはどうだろう?

なにか通じましたか?

 

「あのさ、その『ぶっ殺してきて!』の会話をもしKちゃん(中学校の校長先生)が聞いたら何て言うと思う?」

 

私はそらさんに続けてそう質問した。

 

「え?Kちゃん?(←しつこいけど中学校の校長先生ね)『面白いこと言うねぇ』って言うと思うよ。あはは。」

 

私はそらさんのその返事を聞いてもう一回「なるほどーーーー!!」と思ったんだ。

 

伝わりますかね?

 

Yちゃん(新しい寮母さん)の反応には『恐怖心』があるのです。

(そらさんの想像ですが)Kちゃんの反応には『信頼』があるのです。

 

Yちゃんがどんなに優しくしようとしても、根底に(今までの)『普通』の学校教育が培ってきた『恐怖心』があるように思えてならないのです。

『ぶっ飛ばしてきて!』『ぶっ殺してきて!』という言葉を放置しておけない『恐怖心』。

きっとYちゃんは長年の刷り込みで無意識にそういう反応になってしまっていることが多いのではないか?と思うのです。

 

もしそうであるなら、それはそれは難しいことに挑戦しているのだなぁとつくづく思ってしまったのよね。

 

「前にIちゃんが夜中に起きちゃってね、寮母さんのところに行こうとした時があったんだって。それで階段をおりてたらね、Yちゃんが誰かに『優しくしているつもりなのに今日も怖いって言われちゃったのよねぇ…』ってしゃべってたって言ってたんだ。」

 

そらさんが頬杖をつきながら私にそう言った。

 

「あー…そうなんだねぇ。で?それを聞いてそらちゃんはどう思ったの?」

 

私は大人のような仕草のそらさんに聞いた。

 

「うん…みんないろいろ…(←ブログ最初のセリフ)」

 

 

8歳の子が言う「みんないろいろ大変なんだよなぁ…」を初めて聞いた私はなんだか不思議な気分だった。

そのセリフに“深み”があったからだ。

 

「でさ、そらちゃんはYちゃんのことどう思うの?好き?嫌い?それともどっちでもない?どんな感じ?」

 

これだけ深みのある「みんないろいろ…」が言えるそらさんは、私のこの単純な質問にどう答えるだろう。

 

 

「ん?Yちゃんが笑ってるときは好きだよ。笑ってるときもたくさんあるし。」

 

「でも怒ってるときは嫌い!」

 

ふむ。

なるほど。

 

そして続けてそらさんはこう言った。

 

「まぁでもさ、Yちゃんも大変なんだよね。寮母さんって大変だと思うもん。だからそらちゃんはYちゃんを応援するよ。頑張れ!って。」

 

 

…ずいぶん上からですね…

でも許容しているところはすごいと思うよ。ママは。

 

私はこのYちゃんの話しを通じて改めて『刷り込み』や『思い込み』に気付く難しさを感じたんだ。

ますます自分の『刷り込み』や『思い込み』に気付いていきたいなぁと思ったのよね。

 

 

私も応援したいなぁ。Yちゃんを。

きっととても優しい人だと思うから。

 

 

今そらさんは秋休み中です。

今週いっぱいお家にいるのですが…

…近所に住む“彼氏”のお家に遊びに行ってしまっていないのよぉぉぉー

 

こういう時間がもっと増えていくんでしょうね。

寂しいのぉ。

 

 

最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

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いつだって肚から笑っていたいんだ。~自分の“快”“不快”の話し~

 

どうやら私はよく笑うらしい。

そういえば一日に何回もケラケラと大声で笑っている。

でもまったく自分で気が付いていなくて、結婚してから亮一さんに言われて気が付いたんだ。(今は自覚していますよ。)

 

過去の私はやたら毎日が辛くて苦しかったし、毎日血反吐を吐きながら生きていたように感じるのだけれど、ソープ嬢の時もバーテンダーの時もホステスの時もその後も、思い出してみるとよく笑っていたように思う。

あんなに辛くて暗い毎日だったけれど、私がそんなものを抱えていたなんてきっと誰も気づいてないんじゃないかと思うくらいケラケラと笑っていたように思う。

 

今思うと、そのケラケラ笑っている時の自分のほうが居心地がよかったし、きっと自分にとっての“快”だったのだと感じる。

でもいったん仕事を離れ一人になると、途端にドヨドヨ~ンと闇に落ちていくのだ。

辛くて苦しい、血反吐を吐くような地の底、闇の世界に自ら落ちていくのだ。

 

「あぁもう私は生きていけない。いや、こんな愚かなどうしようもない私は生きている価値なんてないんだ。なぜ私は息をしているのだろう。こんなにも醜い私がこの世にいる意味なんてどこにもないじゃないか。」

 

いつもそんなことを酒を飲みながら考え続けていた私。(酒でも飲まなきゃいられなかったのでしょう。)

そして生きていることがいたたまれなくて、でも空腹になってしまう自分が嫌で仕方がなくて食べ物を詰め込み、そして吐き出していた。

 

今ならわかる。

なぜそんなことをしてしまっていたのか。

 

 

自分が“快”でいることが許せなかったからだ。

 

こんな愚かな醜い私が“快”でいることなんて許されてたまるか。

私は地の底を血反吐を吐きながら這いつくばるのが相応なのだ。

と信じて、いや信じるなんてもんじゃなく、それを当たり前のことだと思っていたのだ。

 

苦しくて辛い状況から、努力して精進して歯を食いしばって耐え忍んでやっと這い上がれる。

一歩這い上がるにも死に物狂いの努力を強いられて当然のヤツだと思っていた。

そのくらいやらなければ「生きていてもいいよ」と言ってもらえないと思っていた。

そのくらい自分はどうしようもなく醜くて愚かで、生きている価値がないと思っていましたから。

 

ですが、残念なことに私はたぶん元々怠け者で我慢がきかないヤツだったのでしょう。

そこまで長く歯を食いしばるような努力が続かなかったのだ。

そして自分は本当は“快”の状態でいたいのだ!と気づいてしまったのです。

 

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快の極みだな。

 

さて。

私は盛大に困った。

だって“快”の状態でいたいなら、自分が“快”を選ぶことを許可しなければいけないのだから。

いままで禁じていたことに許可を出さなければいけないのだから。

 

“快”を選ぶって簡単なことのように思えませんか?

だって自分の良いほうを選べばいいのだから。

でもね、これが思ったよりもなかなか大変なことなのですよ。

だって長年“自分の良い方”が『辛く苦しい不快の方』だったのですよ?

自分にそっちの方しか選べないように設定していたのだから。

 

これこそ私にとっては吐きそうになるくらい怖いことだった。

自分にとっての“快”を選び続けるって吐きそうなほど怖いことだった。

 

まずこんなに愚かで醜いと思っている自分の存在を認めていかなければならない。

自分の思っていること、考えていることにもっときちんと耳を傾けていかなければならない。

そして必要ならばそれを口にしていかなければならない。

これはとてつもなく怖くて死にそうなほどブルブルと震えることだった。

 

でも自分に嘘をつくのはもうまっぴらだ。

それじゃあこの“不快”が続いていく人生を送っていくだけだから。

 

もともと私は一人だった。

もともと心を開いた人なんていなかったのだから、今更人に好かれようなんておこがましい限りだ。

いや、嘘をついたまま、偽った自分のまま人から好かれたってどうせ虚しいだけだしますます自分も人も嫌いになるだけだ。

人の顔色なんて窺ってる場合じゃねぇ。

私は死に物狂いで自分に“快”を許可してやるぞ。

それで人に嫌われたって仕方がない。

傷ついたり悲しみにくれたりするかもしれないけれど、自分の本心に気付かず生きていくよりはそっちのほうがずっとマシだ。

 

そんなことを私は日々思い、少しずつ、ほんとに少しずつ、怖いチャレンジを始めたのは26歳の頃からだったような気がする。

今は一生懸命思い出さなければ忘れてしまっているようなことだけれど、今じっくり思い出してみると何度も何度も震えながら、吐きそうになりながら本心を口にしていった。

自分がいつの間にか、いろんな我慢をしていることを自覚していったんだ。

 

この我慢は必要だろうか?

この我慢はどこからきたものだろう?

この我慢を私はどうしてしているのだろうか?

この我慢はしている方が“快”なのだろうか?

 

私は私に素直になることがとても下手くそで、何度も何度も自分の嘘に騙された。

今でも気を抜くとすぐに騙される。

だからいつだって気にしているんだ。

こいつはすぐに嘘をつくからね。

すぐに問題をすり替えてくるからね。

 

「だってこれはそらさんの為だし…」

「私がこれを我慢するのが家族のためだからなんともないことだよ。だって…」

「お金がかかるしこれはできないよ。だってそれが当たり前のことでしょ?」

「私が家事をやらなきゃ誰がやるっていうの?これはしょうがないことだよ。だって女だし…」

「今日はゴハンを作りたくないけどそんなこと言えないよ。いや別にそんなにいうほど作りたくないわけじゃないのよ。だってお料理好きだし…それに…」

 

私の脳内はいつだって気を抜くと嘘と言い訳で埋め尽くされる。

“本当のこと”が見えなくなるくらいだ。

そんな自分も愛しくて好きなのだけれど。

 

でも私は負けない。

絶対いつだって見抜いてやる!と決めているからだ。

“快”を選び続けて、“快”でい続けることを自分に許したいからだ。

ここで見逃すといつだってこじらせて、挙句の果てには“不快”に人を巻き込むことを知っているからだ。

 

今私にはありがたいことに“快”メーカーの亮一さんがいてくれる。

一人だった時の“快”選択度が40%だったとすると、亮一さんと結婚してからの“快”選択度は120%だ。

亮一さんは私に無理なく“快”を選ばせてくれるし、いつだって私を笑わせてくれる。

(私が勝手にゲラゲラ笑っているだけとも言えるんだけどね。笑)

そしてなによりも自分と同じくらい、いやそれ以上に大好きな亮一さんを“不快”に巻き込みたくないから、私はますます必死に“快”でい続けたいと思うのだ。

 

“不快”な自分に出会ったときはチャンスだ。

その“不快”を味わえるから。

知れるからだ。

“不快”は排除しようとしてはいけない。

排除しようとすると大きくなるだけだから。

ただ知る。

自分の“不快”を知る。

すると“快”がわかる。

そして勇気をもって“快”を選ぶ。

“快”を選択することを勇気をもって自分に許す。

ただただ笑っていることを自分に許す。

いつも機嫌よくいられることを自分に許す。

状況は関係ない。

機嫌が悪くても機嫌よくいることを許す。(これ伝わるかなぁ。)

 

きっと幸せはここがスタートだと私は思うのです。

 

私は死に物狂いで“快”を選択していった。(今も続行中。)

結果人に嫌われても仕方ねぇや!と開き直りながら。

そうしたらさ、不思議なことに前よりも人から好かれるようになったし、私も人のことがどんどん好きになっていったんだよね。(なにより自分のことが好きになった。)

 

なんでこんなことを書いているのかというとね、私の好きな「ナリ心理学」のナリくんがLINE@でこんな言葉を書いていたからなんだ。

 

 

子育てで一番大切なもの。

 

それはお母さんの笑顔!一択!!

 

まじでこれ。

それ以外は、ガストの山盛りポテトについてる葉っぱくらいなもん。

 

お母さんの笑顔。

お母さんの笑顔。

お母さんの笑顔。

 

だから、お母さんは自分の笑顔のために本気になることを「子育て」というのかもしれません。(知りませんが。)

 

そして、奥さんを笑顔にさせてない旦那のことを「本物の無職」と言います。

ナリが勝手に作っただけ。

 

 私はこの意見に激しく同意するのですが、ナリ君は『笑顔でいる』ことを『機嫌良くいること』と言っています。

昔の私は『機嫌良くいること』がまるでできなかった。

一人でもできないのだから、あのまま結婚や子育てなんてした日にゃできないに決まっています。

ますます『不機嫌』に拍車がかかるだけでした。

それも無自覚なまま。

 

うわ!今怖い事言った!!

無自覚なまま!怖い!!

 

心当たりある人が何人か頭に浮かびますが、「私のことだ…」と思っている人、いるでしょ?

もしそう思ったなら知っていこう。

自分の“快”“不快”を。

そして勇気をもって許していこう。

自分が“快”でいることを。

 

“不快”を選び続けている理由はなんですか?

自分に“快”を許していないのはなぜですか?

 

あなたが“快”だとみんなが幸せなんだよ。

知ってた?

私は知らなかったんだ。

だから知れてよかったなぁと思っています。

だから私からあなたにもう一度言うね。

 

あなたが笑顔で機嫌がいいと、それだけでみんなが幸せなんだよ。

だからどうかいつだって肚から笑っていてください。

私もいつだってそうしたいと思っています。

もし何かを頑張るなら自分の機嫌を良くする方向に頑張ってください。

これはみんなの願いなんだよ。

 

ナリ心理学、面白いよ。↓↓↓

 

https://ameblo.jp/nalipsychology/entrylist.html

 

この動画もぜひ!

https://ameblo.jp/nalipsychology/entry-12535732406.html

 

最後まで読んでくれてありがとう。

生意気なこと言ってごめんなさいね。

どうかあなたに届きますように。

 

ではまた。

 

 

 

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いろんなことがたくさん詰まっている毎日をもらっているんだ。と彼女は言った。

 

台風。

すごかったですね。

めちゃくちゃ怖かった…。

藤山家はお陰さまで何事もなく、みんな無事です。

でも怖かった。

自然の畏怖を改めて感じた日でした。

 

被害に合われた方もかなり多いようですね。

偽善的だなぁと思うけれども、書かせてください。

被災されているみなさん、無理せず焦らず身体を労わりながらどうか毎日を生きてください。

身体が元気ならなんとかなる。と私は思っています。

ふんばれ。きっと大丈夫。いや、絶対大丈夫。

 

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家のかわいこちゃん。(夏♀2歳。めっちゃかしこい。)

 

台風の勢力が治まってきた頃(土曜日の夜ね)、私たち家族はお布団に入りました。

今回の台風は大きくて強くてやばいよ!と私たちが言っていたのを聞いて&テレビの報道を観て夕方一泣きしたそらさん(娘8歳。鬼カワ。)は、ホッとした様子で仰向けに寝ながらお話しを聞かせてくれた。

 

「あのさ、そらちゃんはいつもこう思うんだ。」と天井をまっすぐ見つめながらそらさんが話し始める。

 

 

「悲しいことが1つあるでしょ?それで、嬉しいことが1つ、すごく嬉しいことが1つ、苦しいことが1つ、ものすごく楽しいことが1つ…っていう風にいろんなことがたくさん詰まっているのが一日で、それをもらってるわけだよね。」

 

 

楽しいこと、悲しいこと、すごく嬉しいこと、苦しいこと…そんなことがたくさん詰まっているのが1日。

そしてそれを『もらっている』のだと彼女は言った。

私はもうその時点で「おぉ…」と感動していたのだけれど、その後彼女はこう続けた。

 

 

「その、いろんなことがたくさん詰まっている『1日』を毎日“もらい続ける”のが人生でしょ?そらちゃんはもう8年も生きているから、その『いろんなことがたくさん詰まった1日』をもういーっぱいもらってるんだよね。(←ニヤリと嬉しそうに笑いながら。)それでね、そらちゃんはさ、『いろんなことがたくさん詰まった1日』をもうもらいたくない!と思っちゃう人の気持ちがわからないんだよなぁ…。」

 

と。

 

私は最初彼女がいわんとすることがよくわからなくて、「あぁ…そうなんだねぇ。」と曖昧な相槌を打ってしまったのだけれど、よくよく聞いてみると彼女(8歳)はどうやら『自殺』についての話しをしているようだった。

 

「もうこんな毎日は嫌だ!って思っちゃった人がいるとするでしょ?ていうか、そう思っちゃう人っているんでしょ?それでさ、もう自殺したい!とか思っちゃって、でも勇気がなくて自殺できない!っていう人もいるじゃん?そういう人はさ、『もういろんなことが詰まった1日はいりません!』って本気で言うのが先なんだよ。

それを本気で言えない人は自殺なんてできないんだよねぇ。とそらちゃんは思うんだ。」

 

 

彼女がどうしていきなりそんな話しをしたのかはわからないのだけれど、そらさんは『人生』について考えたり話したりするのが好きらしいので常々そんなようなことを考えているようだ。

 

私は彼女の言葉のチョイスがとても好きなのだけれど、『いろんなことがたくさん詰まっているのが1日』とか、『その1日を“もらっている”』とか、『いろんなことが詰まっている1日をもらい続けるのが人生』とか、ほんとに秀逸だと思う。

(しつこいようですが彼女は8歳です。)

そして『自殺』についての考察もなかなかだなぁと思うし、結構深いことを言っています。

 

その『いろんなことが詰まった1日』を本気で「もういりません!」と言えないと自殺は成功しないのだ。と。

そして彼女はそう思ってしまう人の気持ち(本気でいりません!と思ってしまう人の気持ち)が分からないんだよなぁ…と遠くを見つめるのです。

 

 

「そらちゃんはさ、『たくさんいろんなことが詰まった1日』を“もらう”のはどんな感じ?嬉しい?めんどくさい?楽しい?それともちょっと嫌だったりする?」

 

私は遠くを見つめる彼女にそんな質問をしてみた。

すると彼女はこっちをチラッとみてからすぐに天井に目を向けて「うーん…」と考え、

そして少ししてから「楽しいし嬉しいよ。悲しいこととか嫌だったりするけどね。」と笑顔で答えた。

 

私はその答えを聞いて思いついたことを口にしようとしたのだけれど、途中まで口にしてから自分の考えていることにハッと気づいた。

 

「あのさ、楽しいことが1つ、嬉しいことが1つ、それから悲しいことが1つ、苦しいことも1つ…っていうのがたくさん詰まったのが毎日なんだよね?…」

 

の後、私は当初こう続けようと思考していた。

 

 

「その中でさ、楽しいことと嬉しいことに目を向ければいいんだよ。そうしたら楽しいことと嬉しいことが大きくなって、そういう1日になるじゃん!」

 

 

私は上記の言葉を言おうとしたのだけれど、すぐに気付いて思いとどまった。

なんと気持ち悪いことを言おうとしていたのだろう!!と吐きそうになったからだ。

私は常日頃から「悲しいことも苦しいことも悔しいこともなかったことにしないようにしよう」と思って生きています。

ちゃんと見ようとしないうちからなかったことにするんなんて反吐が出る!と思って生きています。

(あまりにも辛すぎることに一時期蓋をするのは仕方がないことなのかもしれない。とも思っていますけれど。)

 

逃避のための『ポジティブシンキング』なんて気持ち悪くて仕方がないと思っているし、綺麗にしておきたいだけの『前向きに生きる』という言葉が嫌いだ。

(前向きも後ろ向きもねぇよ!が一番の前向きなんじゃないかと…)

 

あぁ…それなのにそれなのに…

 

私は一瞬にしてよくある『良い母親が娘にするであろう良い話し』をしようとしてしまっていたのです!

なんという愚かな女なのだろう!

 

私は話しを途中まで口にしてしまっていた手前、なんとか着地をしようと試みた。

 

「あのさ、楽しいことが1つ、嬉しいことが1つ、それから悲しいことが1つ、苦しいことも1つ…っていうのがたくさん詰まったのが毎日なんだよね?…

それでさ…(えーと…えーと…どうやって着地しよう…と必死で考える。)」

 

 

 

「悲しいことも苦しいことも……楽しくなったらいいね!!」

 

 

 

…おぉ…

 

なんという語彙。

乏しすぎじゃありませんか。

(言いたいことはそういうことなのですが。)

8歳の彼女はあんなにもすばらしい表現をしているのに私ときたら。

 

 

着地がなんともフワフワで、ちょっと恥ずかしい気持ちを抱いている私に彼女は笑顔でこう言った。

 

 

「うん。そうだね!」

 

 

…おぉ…

…救われました…

 

 

 

今日も彼女は『いろんなことがたくさん詰まった今日』をもらっているのでしょう。

そして私も『いろんなことがたくさん詰まった今日』をもらっている。

悲しいこともやるせないことも苦しいこともどうしようもないことも、嬉しいことも楽しいことも笑っちゃうようなこともたくさん詰まった1日。

あとどれくらい『たくさん詰まった1日』をもらえるのだろうね。

 

今日も良き日だな。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

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私(人間)の滑稽な話し。

 

土曜日の夜。

「お休みぃ~♡」とキスをしてお布団に入った後、隣で寝ているそらさん(娘8歳。かなり可愛い。)がずっとゴソゴソと動いていた。

珍しくなかなか眠れないんだなぁと思いながらも、そのうち寝るだろうとほっといた私。

どれくらい経ったころだろう。

そらさんが私の背中に小さな手をそっと置いて「ママ…」と声をかけてきた。

こういう時はだいたい「トイレ行きたい…」と言う時なので、私は「ん?」と振り向いて「トイレ?」と聞いた。

 

ら。

 

「…うぅ…なんかね…悲しいこと考えちゃったの…」

 

と、そらさんがボロボロと泣いていた。

一生懸命流れてくる涙を手でごしごしと拭いながら。

 

「え?そうなんだぁ。悲しいこと考えちゃったんだ…。そうかそうかぁ。」

 

突然のことで驚く私。

さっきまでケラケラと笑っていたのに。

 

「…うん…。ママ…寝てたのにごめん…うぅ…」

 

ポロポロと涙を流しながら私に謝るそらさん。

…切ない…

 

「えぇ?!そんなのいいんだよぉ…どんな悲しいこと考えちゃったの?それは聞かない方がいい?」

 

こんなに泣いているのに私に気を使っていることが切ない。

私はなんとかそらさんの胸中にあるであろう“何か”を吐き出させたいがために的確な質問を高速で考え、そして話しを聞く姿勢を整える。

 

「…うん…それはうまく言えないんだけどね…あのね…」

 

そらさんは最初はぽつりぽつりと自分の小さな胸の中にあるソレを話し出した。

 

「こうやって悲しいことを考えちゃうことが寮で寝てる時もあるの…うぅ…でもね、もう寝てるし、寮母さんに慰めて欲しい時もあるけどね、きっと寝てるだろうし、起こしたら怒られちゃうかもしれないでしょ?…だからね、いつもは我慢するのぉ…うえーん…」

 

そらさんの『吐き出し』はそれから少しずつエスカレートしていった。

 

「我慢できるときもたくさんあるんだよ。悲しいこと考えちゃって一人でベッドで泣いててもおさまるときもたくさんあるんだよ…うぅ…でもね、今日はどうしてもママに慰めて欲しくなっちゃったのぉ…うぅー…ごめんねぇ…」

 

私はそらさんのその言葉を聞いて、切なくて情けなくて泣きそうになった。

 

「え?全然いいんだよぉ。ママなんてさ、そらちゃんの話しを聞くためにいるようなもんなんだから…。楽しい話しはもちろんだけど、悲しい話しも辛い話しも困ってる話しも全部聞きたいよ。それぐらいなんだから。ママができることなんて。今日は言ってくれてありがとうね。」

 

はぁ…

こんなことしか言えない私、やだ。

そんな私にそらさんはこんなことを言いました。

 

「でもさ、なんかさ、ママに相談したいけど、こんな夜に泣いたり相談したりばっかりしたらさ、ママは心配しちゃって気を使うようになっちゃうかもしれないじゃん…あとさ、なんかさ、笑わないママとか世の中にいるでしょ?怒ってばっかりのママとかいるでしょ?ママもそうなっちゃうんじゃないかって心配しちゃうんだよぉ…うえーーん…」

 

おぉ…

夜に泣きながら相談事をすると『笑わない怒ってばっかりのママ』になってしまうのではないかと心配に…うーむ…

そらさんの中のその構図はよくわかりませんが笑、「ママが心配して気を使っちゃうようになっちゃうかも」という心配はわかるな。

 

この後そらさんは胸中のあれこれを吐き出しながらわんわんと泣いたのですが、どうやら“いろいろ言いたいことややりたいことをみんなの気持ちを考えすぎてガマンしていた”のが溜まりすぎちゃったということのようでした。

 

私はなるべくそらさんの表面的な話しの内容に気をとられないよう、余計な口出しをしないよう、そらさんの話しを真剣に聞きました。

「うんうん。そうなんだね。」や「そうかぁ。それは辛かったよねぇ。」くらいの相槌で。

 

そらさんの吐き出しがそろそろ落ち着いてきたなぁというころ、私は心からの言葉をそらさんに言いました。

これぐらいしか言えないから。

 

「そらちゃん、あのね。ママはどんなそらちゃんでも大好きだよ。だからどんな話しでも聞かせて欲しいんだ。だから出来たらでいいからなるべく教えてくれたら嬉しいんだ。でも無理はしないでね。言いたくなければ言わなくていいけど、ママはいつだってそらちゃんの話しを聞かせてほしいと思ってるよ。今日は話してくれてありがとう。辛いときはなるべく言ってね。」

 

私はこの言葉をそらさんに言いながら泣きました。

わんわんと。

なんていうか、すごくやるせなくてね。

自分の非力というか、無力感をビシビシと感じてしまって。

泣いている我が娘(8歳。)の隣でわんわん泣く私(44歳。)。

それはそれは情けなくて滑稽でした。

 

そんな私にそらさんは

「ママも泣いちゃったの?ママ…ママも言ってね。辛いときや相談事があるときはそらちゃんに言ってね。聞くから。」

と涙を手でごしごしと拭いながら言ったのです。

 

もうだめ。

そんなことを言わせてしまう私、もうだめ。

ボロボロですよ。

 

「うー…ありがとう…」(←ボッロボロに泣く。)

 

情けなさ過ぎて「こんな母親でごめん…」と言いかけそうになった時、そらさんが「そらちゃんもママみたいな優しいママになれるかなぁ…」と言いました。

私はもうなんだかわからずに「そらちゃんはそらちゃんらしいママになればいいよ。」としみじみ言ったその後。

 

 

「まぁそもそも結婚するかどうかもわからないし、子どもを産むかどうかもわからないんだけどねっ!あははは!」

 

 

…いつの間にかケロッとして笑っているそらさんが目の前に。

 

「そうだね!あはははは!」

 

笑ってるそらさんにつられて笑う私。

 

「あのさ、ママ。ぜんっぜん話し違うんだけどね、この間Yちゃんがさぁ~…」

「うんうん!なになに?」

「それでさぁ~あっははははー!」

「えー!そんなことあったんだぁー!あっははははー!」

 

 

…さっきのアレはなんだったんでしょう…?な、あっかるい会話。

 

「じゃ寝るね!泣いたらすっきりしちゃった!ありがとうママ。おやすみー!」

 

…おぉ…

あんなにさめざめと泣いていたのに…

この世の終わりのように泣いていたのに…

この気分の変わりようはなんでしょう…

 

そらさんはひとしきり泣いて話して吐き出して、ケロッとすっきりしてしまったのでした。

 

そらさんが笑いながら寝たことに安心していたけれど、私は私の中の『やるせなさ』が残ったまんまでした。

なんだかもやもやしたものが残ったまんまでした。

「私、なっさけないなぁ…」と呟いてしまうくらい。

 

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自作のアイマスクを着けるそらさん。アイマスク可愛すぎやろ。

 

 

次の日。

私は胸の奥にそのもやもやしたものを残したまんまでした。

でもそのもやもやは小さすぎて、ケラケラ笑って過ごすにはあまり支障がありませんでした。

なので相変わらず「あはははは」とケラケラ笑って3人で過ごしておりました。

 

午後。

亮一さんが「チケット取っちゃったよ。」と言いました。

とうとうインドに行くチケットを取ったと報告してきたのです。

ずっと迷っていた亮一さん。

「行くかどうかわかんないよ。」と言っていた亮一さんがとうとうチケットを取った、と。

私は「おおー!とうとう決めたかー!よかったねぇ!」と言ったけれど、その直後に自分の中にもやもやが充満していることに気付いたのです。

なんだかとても居心地が悪いのです。

もやもやして気分が悪いのです。

 

「なんか…いざ決まると不安になるね。…寂しいなぁ…。」

 

私の口からはこんな言葉が出ていました。

 

「そうだよね。俺も不安だもん。俺も寂しいし。」

 

亮一さんは冷静にそんなことを言っていました。

 

その後、私のもやもやは増すばかりで、不満や不安がたくさん湧いてきました。

脳内ではいろんなストーリーが巻き起こります。

 

「私たちのこと置いて行っても平気なんだ。」

「結局この人は私のことなんて気にしてないんだ。」

「いいよね、子どものことを任せていかれる人は!」

「ほんとは結婚したことを後悔しているんじゃないの?だって私たちがいなかったらもっとこの人は自由に動けるんだから。」

「どこまでいっても私ばっかりがこの人のことを好きで、この人は私のことなんて好きじゃないんだ。」

 

挙句の果てにはこんなことまで。

 

「もう…だめかもしれない…(さめざめ…)」

 (↑上記の内容はいっさい亮一さんには言っておりません。あくまで脳内ストーリーです。)

 

 

もうこれが全て。

これがほんとの世界だと思い込んでいるのです。

でも幸運なことに私にはいくつも視点がある。

こう思っている自分に『気付いている自分』が在る。

 

そのストーリーに埋没しそうになりながら、どこかで気づいている自分が「あれ?これは一回思いっきり泣かないと抜け出せないやつだな…」と観ている。

 

で、夕方。

私は嫌ぁな気分のまま、夕飯の支度を始めました。

途端に泣けてくる。

ただ夕飯の支度を始めただけなのに、ボロボロと涙が出てくる。

私は一瞬これを止めようとするのだけれど(バレたら恥ずかしいとかなんで泣いているか聞かれたくないからとかの思いで。)、ここで止めたらダメだと思い、身体に任せる。

野菜を用意しながらボロボロと涙を流す。

お肉を切りながらボロボロと涙を流す。

玉ねぎを切りながら、今はボロボロ涙を流しても違和感ないなぁと思いながらボロボロ涙を流す。

時々鼻をちーーんとかみながら。

 

どれくらいボロボロと涙を流しただろう。

私は「はぁー!」とひとつため息をついた時に「あれ?」と気づく。

 

なんか…

 

 

 

スッキリしてる!!

 

 

 

 

あれ?

さっきの不安や不満はどこ行った?

さっきまで「きっと亮一さんはうんぬん…」って言ってたよね?私。

えーと…

なんて言ってたっけ?忘れちゃったなー。

あー!亮一さんはインド行きのチケットとったんだよね!

よかったよかった!

楽しみだなー!あはははー!

 

 

↑これ、ほんの数時間の出来事。

滑稽だと思いませんか?笑

 

そらさんと一緒!!ウケる!!

 

その後私は今日自分に起こった出来事を夕飯を食べながら亮一さんに報告しました。

 

「さっきまでいたたまれないくらいもやもやしてたんだけどさー、泣いたらすっきりしちゃったよ。泣く前と後じゃまるっきり気分が違うって滑稽すぎるんだけど!ウケる!あはははは!」

 

と。

 

亮一さんは私のその話しを聞いて「そうなんだねぇ。でもよかったよ。安心しました。」と優しく言いました。

 

「で?結局そのもやもやの発生は何だったと思うの?」

 

亮一さんが私に聞きました。

このもやもやはいつどこで発生したのか。

そらさんとの昨日の夜の会話が発生源なのか。

私には明確な答えがありました。

謎でもなんでもありません。

 

 

「え?ただ体調が悪かっただけだよ。」

 

 

そうなんです。

ただ体調が悪かっただけなんです。

私、秋の花粉症があるんです。

ブタクサ?ですか?

今年はひどいのですよ。症状が。

だからね、ここのところずっと体調がすぐれないのです。

なのにちょっと無理してたんだね。

 

ただそれだけ。

 

滑稽じゃないですか?

笑っちゃうよね。

 

だからさ、何かもやもやしたことや不安がある人は疑ってみてね。

体調の悪さを!

 

いっくらでもストーリーをもってこられるからね。

思考ってやつはさ。

それ(思考)をこじらせるとやっかいだぜぇー。

ただ体調悪いだけの時ってめっちゃくちゃあるからね。

 

って、今日はそれが言いたかっただけでした。

 

ちゃんちゃん。

(でもね、これってすっごく大切なことだと思うのよー。)

 

 

読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

 

 

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できたことを褒めてあげよう。結果はどうあれ。と思う自分は綺麗ごとがすぎるのでしょうか。

 

9月の半ばころ、なんとなぁくこれをやりたんだよなぁ…と前々からうっすらと感じていたことを亮一さんに小さな声で言ってみた。

 

「私さぁ、実はこれをやってみたいんだよねぇ。」

 

と。

 

この時点ではほんとにやりたい気持ちはうっすらとだったし、できるわけないかぁとやってみてもいないのに諦めていた私。

正直めんどくささもあったし。

 

でも亮一さんは「お!いいねぇ!やってみたいならやりなよ。いいじゃんいいじゃん!」と言ってくれて、それを聞いた私は「うん!そうだね!私、やる!」と急にやる気になってしまった。

相変わらず単純だな。

 

私のその“やりたいこと”の詳細はまだ伏せておくけれど(なんだか気恥ずかしいので。)、私がそんなことに挑戦するなんて数年前の私にはまったく予想がつかなかったことなのです。

 

「うん!やる!」となってしまった私は、その“やりたいこと”に真正面から取り組むことになったのだけれど、こんなにめっちゃくちゃ集中したのはほんとに久しぶりだった。

 

 

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関係ないけど家のかわいこちゃんたち。左がハルくん(♂2歳)。右が夏(♀2歳)。めっちゃ甘えん坊。 

 

 

数年前から私は『なんにもしないしなんにも出来ない私』に出会い、『生産性のあることを何もしないクズな私』をあえて表に出して、もがきながら見つめることを本気でやってきたのだけれど、これはものすごく辛い作業でした。

 

さっきFacebookの投稿でOSHOの言葉があがってきていたのだけれど、ちょっとここで引用しておこうかな。

 

退屈に直面するには大きな勇気がいる。

人は退屈を感じはじめたとき、初めて人間になる。

 

 

うむむ。

『退屈』ってほんとに退屈なのよね。(何言ってるか、わかる?)

それはものすごい恐怖なのですよ。

私はこの数年、この『退屈』を死ぬ気で味わったような気がしています。

(まぁ私の『死ぬ気』なんてたかが知れているのですが。)

 

退屈に直面するのには大きな勇気がいる。

それはほとんど死ぬようなものだ。

実際のところ、それは死ぬより難しい。

しかし、仕事をしたり、お金を稼いで貯金をすることに喜びを感じ、レストランで食事をし、映画や旅行に行ったり、あれやこれや参加しているうちは人は退屈なんかしないし、楽しんでいる。

 

しかしそれは、まだ本当の人間ではないのだ。

 

人は退屈を感じはじめたとき、初めて人間になる。

 

『退屈』って『虚無』を感じやすいのです。

何かをやって、自分のやっていることに“価値”や“意味”を見いだせれば、もしくは“価値”や“意味”を頭でこねくりまわしてひねり出せれば、いや、誰かから「価値があるね!」「意味があるね!」と評価されれば、『虚無』を感じなくてすむ。

私って『無価値』なのかも…と恐怖を感じなくてすむ。

だから“何か”をやり続ける。

自分の存在に『意味』や『価値』が有ると信じたいからね。

 

 

私たち夫婦は亮一さんがこのブログでも書いていたように、いつだって「0(ゼロ)から会話をしよう」と意識しているし、「0(ゼロ)から話しを聞こう」としています。

 

その記事はこちら↓

note.mu

 

だから私は『虚無』という、ものすごい恐怖を感じてしまうソレから逃げるのではなく、『虚無』に飛び込もうとしました。

『価値がある』とか『無価値だ』とかは、誰がきめるのだろう?と疑問に思い、あえて『無価値感を感じる方』に身を差し出しました。

そして『私』とはどれのことだろう?ときょろきょろ探していました。

『私の0(ゼロ)』を知りたかったから。

 

ここ数年で「これが私だ」と思い込んでいた観念が、ガラガラと崩れていく音を何度も何度も聞きました。

「私ってこういうやつだから~」と人前でさらしていた『私』を疑い始め、私がいつの間にかもっていた『私像』がどんどん崩れていった時はどうやって人と話したらいいかわからずに戸惑ったりもしたし、怖くて泣いたりもしました。

 

「これが私なんだよねぇ~」と人前でさらしていた『私』は、どこにもいない虚像でした。

私が決めた、私がいつの間にか思い込んでいた、『虚』の『像』でした。

 

そしてどこまでいっても『私』は曖昧模糊としていて、実態がみつかりません。

なので『価値がある』とか『無価値だ』とかが成り立たないのです。

だって、どこまでいっても『私』が曖昧模糊としているのですから。

そして『虚無感』というのはあって当たり前の感覚なのだと知りました。

だって、この世に確定しているものがないのですから。

「掴めるものがなにもない」世界で「正解を誰も知らない」のですから。

 

嫌ぁな気分の時は、その『虚無』や『無価値』をなんとか自分の世界から排除しようとしている時だと知りました。

自分に『価値』をつけようとしている時や、『虚無』を感じなくしようと躍起になっている時は疲れるし、とても嫌ぁな気分になる。

その嫌ぁな気分を人は“不安”と名付けたのでしょう。

「お金がないから」とか「愛されていないから」とか「最愛のパートナーがいないから」とか「先行きがわからなくて」とか、人はいろんな『不安の理由』を語ります。

そして“不安”と名付けられた嫌ぁな気分を少しでも感じなくするために、“何か”をやり続け、“何か”を得ようとする。

 

「お金がもうかれば!」「愛し愛される相手が現れれば!」「事業で成功すれば!」「将来の安定を得られれば!」「たくさんの人から賞賛されれば!」「人から崇められれば!」「自分が特別な存在だと認められれば!」「社会貢献すれば!」「たくさんの人を救えば!」「世界平和を祈れば!」「霊能力を手に入れれば!」「特別な才能を発揮できれば!」「スタイルが良くなれば!」「顔が美しくなれば!」etc…

 

ちょっと前から流行ってる『自分のほんとうにやりたいことをやろう!』ブームって難しいことなんだなぁと知りました。

『ほんとう』がわからないんだものね。

それを知るためには『虚無』や『無価値』に気付いて、飛び込まないとなんだから。

 

『退屈』と『虚無』を「うおー」とか「ひゃー」とか「うえーーん」とか、苦しい苦しいとか死んじゃうぅぅ~とか言いながら体験し、ある程度降参した私。(本気の降参はまだできていないところが悔しいよなぁ。)

 

そんな私に久しぶりに『やってみたいこと』が現れた。

私の思考は相変わらずバカなので、「そんなことやっても無駄よぉ~」とか「はっずかしい~」とか言うのだけれど、そんな声を聞きながらも亮一さんにぼそぼそと言ってみて、身体が動く方に身をまかせてみました。

 

そしたらさ!

めっちゃ大変でやんの!

もー疲れる疲れる。

苦悩するわくたくたになるわ、もー大変。

でもね、不思議なことに止めないのです。

身体がやりたがるのです。

「やりとげるまであきらめない!」なんて思いが湧き上がるのです。

 

そして9月30日に私はその『やりたいこと』をやりとげた。

まー疲れたけど気持ちよかったのよ。

「やった!」なんて清々しく思っちゃってね。

亮一さんにもそらさんにも感謝の気持ちがあふれるほど湧いちゃってねぇ。

 

この『やり遂げたこと』には一応“結果”というのがでるものなので、「あぁー良い結果が出ればいいなぁ」と思うのです。期待もしてしまいます。もちろんね。

でもそれよりも「これをやりたいんだ!」という思いが湧いたことが嬉しかったし、それを自分がやれたことをすごい!と思えたのです。

 

偉い!よくやった!

 

と。

 

『退屈』『虚無』『無価値感』ってめっちゃネガティブワードに感じません?

怖くないですか?

私は怖かった。

でも飛び込んでみて味わってみると(飛び込み方はかなり中途半端ですが…)、そこにはなんともいえない世界が在ったのです。

いつでもその世界に居続けていたいのですが、いかんせん『個』という幻想にどっぷりな私はそこに居続けることはできません。

すぐに「私はさぁ~」と『個』である「自分語り」を始めようとしてしまうのです。

あーあ。

どこまでいっても私は愚かだなぁ。

 

 

『愚かな個である私』と『退屈に溶け込む私』。

これを私は行ったり来たりしながら生きている。

そんな風に感じるのです。

 

うわ!

ここまで書いてて思ったけど、私、めっちゃめんどくせー!笑

まぁいっか。

生まれてから今まで、めんどくさくなかったことんなんて一度もなかったもんな。

 

てことで、私は今日もあーだこーだ金にもならないことを考えながら生きてます。

急にやる気になってみたり、相変わらずぐだぐだしたり、偉そうなことを言ってみたり、そして突然退屈に溶け込んでみたりしながら。

 

今日も良き日だな。

 

 

グダグダした文章を最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

 

 

 

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一滴のエキスである私。

 

私たち夫婦はちまちまと地味に夫婦ブログを続けております。

昨日亮一さんが書いた記事がほんとに素晴らしかったのでこちらでもシェア。

note.mu

 

 ↑↑↑マジで読んでみて!!

だまされたと思ってさ!!

 

以下本文より抜粋。

 

 

「宇宙の中の地球の中の一滴のエキスである僕」

そんな一滴のエキスである僕は、

今自分が何をしているのか、全体の中で何の役目をしているのか、

どこに向かおうとしているのか、どこにも向かっていないのか、

一滴のエキスの位置からは、さっぱり分からないのです。

それは頭で考えても分からないのです。

思考を超えていると思うのです。

ああでもない、こうでもない、と少しでも人生を良く生きようと思い、もがきながら生きる日々。

そんな大した事もなさそうな、何の変哲もなさそうな日常。

それが「宇宙の中の地球の中の一滴のエキス」がどうしても果たさなければならない、かけがえのない一回きりの裸の人生そのものなのかもしれません。

 

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一滴のエキスであるそらさんが地面に書いた私たち夫婦の絵。可愛すぎる。 

 

私はどうしたって愚かにも『こうなりたい!』だとか『こうやって生きていきたい!』と欲求や希望も持ちます。

これはどうしたって止められないし、これこそが人間の“良さ”だと思っています。

もしかしたらそれは『一滴のエキス』である私の役割なのかもしれない。

『こうなりたい!』という願望を達成することが重要なのではなく、『幸せ』を求めながら、模索しながら、もがきながら生きる日々が、果たさなければいけない、かけがいのない一回きりの裸の人生そのものなのかもしれない。

 

 

私はお誕生日の時にこんなことを書きました。

 

どっちでもいい。

 

のだと。↓↓

 

今年も私のお誕生日がやってきました。 - 藤山家においでよ

 

何かを達成することはとてもエキサイティングだし、とても喜ばしいことです。

願望を実現させることはとても嬉しいことだし、満たされることでしょう。

希望を持ち、それに向かって邁進することはとてもエネルギーに満ちる行為だし素敵なことだと思います。

今現在私も地味に、でも内心ではパワフルに自分の欲求に従って動いている最中です。

そうなって欲しい!自分の願望が現実になって欲しい!

そう思っています。

でも、その反面でこうも思っています。

 

「どっちでもいいかな」

 

と。

 

だって一滴のエキスである私の思考なんてたかがしれているでしょうから。

思考を超えたところにきっと“何か”があるのでしょうから。

 

でも希望や願望を持たないことなんてできません。

だから私は全力でもがくのです。

そして全力で求めます。

どこかで「どっちでもいいんだろうな」と思いながらも。

 

人はどこまでいってもコントロールをしたがるのでしょう。

コントロールを手放すなんて、とても難しいことですから。

だから無理にコントロールを手放そうとはしません。

(そういうときもあるけどね。)

 

ただもがき、求め、知りたい!と願う。

なんて可愛いのだろう。

 

今日も私はそんな“私”とお付き合いをしています。

なかなか進まない『やりたいこと』にのろのろと向き合いながら。

 

さて。

愚かな私の願望を実現させられるようにまたもがこうかな。

どうせなら泥臭く、かつ爽やかにもがきたいもんだな。

 

最後まで読んでくれてありがとうございます。

ではまた。

 

 せっかくだから夫婦ブログの私のほうも読んでみてね。↓↓↓

 

note.mu

 

 

 

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摂食障害のことをお勉強してみて。(途中経過報告①)

 

 

少し前、私はブログにこんなことを書きました。↓↓↓

yukiukix.hateblo.jp

 

あれからほんの少しずつ、私なりにお勉強をしてます。

傍から見たらお勉強なんていえないレベルのことかもしれないけれど、私なりにゆっくりゆっくりとやっております。

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学術書ってどうしてこうも読み辛いのでしょうか…。私の脳みそでは限界が…ボチボチいきます…

 

いろいろ調べていくと、私はけっこう酷いレベルの摂食障害を患っていたことがわかってきました。

患った年数もかなりのものです。

それが治った。

いや、『治った』わけじゃないのかな。

厳密にいうと『症状が出なくなった』。

(何をもってして『治る』なのか?もごちゃごちゃ私が考えていることの一つです。)

そして何よりも、今の私は「摂食障害になってよかったなぁー!最高にエキサイティングですごい体験だったなぁー!」とか思っちゃってるわけです。

摂食障害でボロボロのぐちゃぐちゃのどん底にいた、自死を何度も何度も考えていた過去の私を丸ごと肯定している自分がいるのです。

そして摂食障害になってしまった自分も愛しくて大好きです。

 

これには大きな訳がある。

そしてこうなるにはとても大切な行程がある。

 

今私の中に一つの仮説があるのだけれど、その仮説が合ってるのかどうか?を知るためにお勉強をしています。

私の中で大きな確信を得ることができたら、それを軸に綴っていこう。

そしてたくさんの人に読んでもらいたい。

じゃあたくさんの人に読んでもらうためにはどうしたいいか?を結構真剣に考えています。

 

先日私の愛するMさんが、某有名大学の先生とお酒の席をご一緒する機会を私につくってくれました。

その先生は長年摂食障害を研究している先生です。

まー緊張しましたよ。

高級クラブホステスをしている時は大学教授や准教授の方と何度もご一緒する機会はあったのですが、それは『ホステス』として同席するわけです。

今回はなんの肩書も持たない、『私』でご一緒するわけです。

しかも私は高卒。

けっこう学歴コンプレックスを持っている私。

こんな無知な、のほほんとしている私が有名大学の先生とご一緒するなんて!!とちょっとブルっておりました。

が…

さすがMさんの紹介してくださった先生です。

とっても紳士的な対応をしてくださいました。

(Mさんの気遣いもほんとにすごいんだよなぁ…)

インテリジェンスってこういうことよねぇ…と再度感じたのでした。

 

先生は私の話しに優しく耳を傾けてくださり、私のする基本中の基本のような質問にも丁寧に答えてくれました。

私はこの貴重な時間で、私の中の確認したいことをいくつも確認することができました。

もうほんとにありがたすぎて、夜の街中で叫びたくなるような時間だったなぁ。

(Mさん!愛してます!!ほんとにありがとう!!)

 

後日、私はFacebookで突如流れてきた広告に目を留めます。

そこには『摂食障害を共に考える会』と書いてある。

参加費1000円。

むむむー。

今現在、摂食障害に苦しんでいらっしゃる方やそのご家族が参加するような会であるという趣旨のよう。

私はもう症状が出なくなって久しいけど、摂食障害の仕組みや治し方なんかも聞かせてくれるらしい。

これは行かなきゃでしょ!ってことで参加してきました。

 

結果、その会社の商品をゆるーくお勧めするって感じの会だったのですが、それはあくまでゆるーくで、今現在食べ吐きの症状で苦しんでいらっしゃる方2名、過去酷い摂食障害だった主催者の方2名のお話を生で聞くことができました。

 

…やっぱりな…

 

これが私の感想。

私が思っている通りのことばかりでした。

そりゃなかなか治せないはずだよ。

だって注目してるところが違うんだもん。

でもこれを説明するのがとても難しい。

そしてなかなか受け入れるのが難しい。

こりゃ早急にちゃんと考えなきゃだな…

 

そんなことを思ったのでした。

 

私ができることなんて微々たることだし、それに「苦しんでいる人を少しでも救いたいんです!」なんて高尚なことを想っているわけじゃないのよ。

そんな大層なことは想っていないのよ。

たださ、せっかく『難病』といわれている病気にかかった経験があるのなら、その中身を分かりやすく、でもリアルに綴ってみたいのよ。

そしてその『難病』といわれている病気の症状が出なくなった経験があるのなら、何故なのか?をわかりやすく、でも赤裸々に綴ってみたいのよ。

 

ちょっとずつ、私は私の仮説を固めています。

そしてそれをどうやって表現していくか?を頭を抱えながら、唸りながら、でも大笑いしながら形作っていっています。

 

 

私は毎日遊んでいます。

頭を抱えながら。

 

私は毎日のほほんとしています。

「うむむー…」と腕組をしながら。

 

私は毎日ゲラゲラ大笑いしています。

難しい本を見て苦悩しながら。

 

私は毎日人間って素晴らしいなぁ!と思っています。

人生って苦しいことばっかりだな…と絶望しながら。

 

これはあくまで経過報告。

これからどう進んでいくか、私にもまるでわかりません。

でもどうにかして表現したい。

もうすごい欲求です。

身もだえするほどです。

あー辛い。

模索って辛い。

でもやりたいからやるんだ。

 

また経過報告するので見守ってやってください。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

 

 

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