摂食障害のことについても書いてみよう。⑥
こちらも先日亮一さんとデートで行った山梨のダム。綺麗だったなー。
もう⑥だって!
そろそろ終わりが見えてますので、もう少しだけお付き合いください。
摂食障害についてここまで書いたの初めてのことで、自分でも驚いています。
内容的にはまだ未熟で稚拙ですが、何か少しでも誰かのヒントになったりしたらこんなに嬉しいことはないなと思いながら、でも結局は自分のために書いています。
よかったら①からどうぞ。↓↓
摂食障害のことについても書いてみよう。① - 藤山家においでよ
摂食障害のことについても書いてみよう。② - 藤山家においでよ
摂食障害のことについても書いてみよう。③ - 藤山家においでよ
摂食障害のことについても書いてみよう。④ - 藤山家においでよ
摂食障害の始まりのきっかけは過度なダイエットでした。
だいたいの摂食障害の方はこれがきっかけなんじゃないかな。
重要なのはどうして“過度”になってしまったのかってところだと思うんです。
ダイエットって“過度”になった時点でダイエットじゃないんですよね。
脅迫観念みたいなものが強く働くから“過度”になるわけで。
もっと長期的に観て健康的に痩せていく方法なんていくらでもあって、落ち着いてやれば無理な過度なことなんてやる必要がそもそもないわけで。
そこが“過度”になってしまう、盲目的に“痩せなければ!”と思ってしまうソレ自体がもうおかしいわけです。
「痩せたい!」と強く思っているように観えて、実際は「痩せることが目的ではない」ってことなんですよね。
「そのまんまの私を観て!」「なにもウソついてない私のことを認めて!」という強い想い。
それが奥深くに隠れているわけです。
発症は15歳の時だけれど、もっともっとその前からその症状が出る原因がつくられていたってことなんです。
人間ってつくづくおもしろいなと思うんだけど、だったらそう気付けばいいじゃないですか。とっとと「認めて!」って言えばいいのに。
でも思考では「痩せたい!」ってことに変換されちゃうんですよね。
これが本気の本気で思ってるように感じるんだからタチが悪いんですよ。
そのまんまの自分で認めて!愛して!!って渇望してるのに、あらわれているのは「痩せたい!」ってさー。
わっかりづらーー
摂食障害の初期は、もう渇望が表に現れ始めた感じですよね。
「痩せたい。」「けど食べたい。」「痩せたいけど食べたい欲求が湧く」「食べたら吐けばいいんだ」「そしたら太らなくて済む」
発症当初はそりゃもう気軽な感じですよ。
それが衝動だなんて気付かないし、また食べるのを我慢して目標体重までがんばればいいと思ってるし、食べて吐くことなんていつでも止められると思ってる。
それが中期ごろになると、もうそれが衝動に変わってる。
抑えられない衝動。
この時期にはもう中毒になってるんですね。
依存 です。
私は摂食障害は依存症 だと思っています。
自分のほんとう に気付かないように、傷つくようなことからさけるように、自分の汚い部分やみたくない感情や直視したくない現実から逃れるように行う現実逃避の行動。
それがお酒の人もいるし、ギャンブルの人もいるし、薬物の人もいるし、SNSの人もいるし、漫画の人もいる。
過度になればなるほど問題視されるけど(犯罪に近くなる、もしくはそもそも犯罪だったりする。あとは周りの人に迷惑がかかるからね)、過度じゃない依存症の人なんて世の中に溢れているよね。
(私は人類みな軽い依存症だと思ってます。仕事とか恋愛とか結婚とか子育てとかもそれに入るよなーなんて。)
まぁとにかく中期くらいになると衝動が強くなり、自分では(思考では)抑えられなくなります。
りっぱな依存症です。
だいたい摂食障害の人で飲酒ができる体質の人は飲酒にも走る様です。
私はまさにそれ。
食べ吐きの依存症であり、アルコールも強かったばかりにこれも軽い依存症だったと思います。(お酒に強かったからお酒でトラブルを起こすことはなかったけれど、現実逃避の手段として使っていたのは事実。)
食べ物を詰め込んでいる時はただただその行為をしているだけでいい。
何も考えなくていい。
そしてお腹がパンパンになったら吐き出せばいい。
その間も苦しいけれど、苦しいことが自分にはお似合いだしその間も何も考えなくていい。
吐き出した後はあのドロドロとした何とも言えない陰鬱としたドロリとした時間がやってきて、心地よくは決してないのになんだか気持ちよく感じてしまうのです。
とにかく時間が潰れるし、怖がってることから目を背けるのにはもってこいの行為。
逃げてる自分を罰するようなことも含まれているしね。
そして終末期。
この時期は自分が何から逃げていて、どうしてこんなことをしているのかが少しずつ観えてきて、症状が減ってくる。
この終末期がやってくるためには「もうほとほと嫌になった。」「もうこんなのやめたい。」と本気で思えているかがカギになると感じています。(あくまでも私の体験ですよ。)
でも、症状が減ってくる(食べ吐きの衝動が起きなくなってくる)とめちゃくちゃ不安になるんです。
え?いいの?終わるの?うそ?楽になってきてるけど大丈夫?
みたいな感じ。
毎日が楽で、特に悩みもなくて、みたいなのに慣れてなくて居心地が悪かったんです。笑
暇 というかなんというか。
そして面白かったのが(おもしろくないか)、あの食べ吐きをした後のドロドロした時間が恋しくて、別に強い衝動が湧いてないのにたまに食べ吐きをしていたこと。
あの陰鬱とした時間に浸りたくて、メロドラマの主人公に陥りたくて、自らそこに入っていこうとしてたんです。
あのドロリとした時間って脳内になんか変な物質出てると思う。(調べてみようっと)
脳内麻薬的ななにか。
そのくらい中毒性があるんですよ。
もう今はあんなに苦しいことしたくないから自らそこにいこうなんて絶対思わないのですが。
あのドロリとした時間にまた浸りたくて食べ吐きをするのですが、だんだんとそんなに気持ちよくなくなってくる。
“あの頃”のような感じではないことに気付くんですね。
もう依存症から抜け出し始めてるんだから、そりゃ気持ちよくないんです。
ただただ苦しいだけってことがありありと観えてくる。
そんなこんなでじょじょに症状がある時から一切出なくなって、終わる。
そんな感じなんです。
ですが、私はこの後しばらくアルコール摂取が続きます。
お酒がすごく好きだったし、強かったってのもあります。
別にアルコールでトラブルも起こしてないし、楽しく飲んでるんだからぜんぜん依存症じゃないでしょ?!好きなだけだもん!なんて思ってました。
毎晩お酒を飲むことが楽しみで、そのために日中がんばる、みたいなよくある構図です。
そんな人たくさんいますよね?
私もそんな感じでした。
ただ飲む量が多かったですが。笑
お酒の世界も好きだったし、お酒の歴史を知るのも好きだった。
味も好きだったし、酒場も全般的に大好きでした。
バーも居酒屋も小料理屋も割烹もイタリアンバルも創作居酒屋もぜんぶぜんぶ好きだった。
フレンチレストランで飲むワインもたまらかったなぁ。
でも、いつからかまったくお酒が飲めなくなったんです。
まったく受け付けなくなったんです。
これには自分が一番驚いています。
私は一生お酒を飲み続けるんだと思っていたのに。
お酒とアテのない世界線なんて考えたことなかったのに。
お酒がまったく飲めなくなって気付いたことがあります。
あれ?
私、アルコールも依存症だったんだ!!ってこと。
どんなにたしなむ程度だといっても、毎晩それがなきゃ!!ってなってる時点で依存症なんだと思います。(軽度ね)
感覚を麻痺させたいと思ってるってことだもんね。
麻痺させなきゃやってられないんだもんね。
私はほんとに心からお酒が好きだと思っていたし、だからこそバーテンダーにもなったし、高いいいお酒を飲めば悪酔いしないし心地よいよなぁなんてことも思ってました。
私がアルコール依存症なはずないと思ってました。
でも違った。
毎晩飲みたい!そのために頑張る!!ってなってる時点で依存症なんだと“私は”思う。
それがダメってことじゃなくてね。
私は摂食障害になって、そしてそれを長年かけて克服?っていうのかわからないけど症状がでないようになってわかったことは
摂食障害は依存症である
ってことと
人は全員何かしらの依存症である
ってことでした。
それから
本気でこれを治したい!どうにかしたい!!と思った時にはそれは克服する術がある。
けれど、一番避けていたことを直視しなければ克服することはない。
ってことも知りました。
それからそれから
一番怖がって避けていたことは直視してみるとそんなに恐れるほどのことではなかった。
ってことも知りました。
これ。
最後のやつが一番重要かも。
今日はここまで。
次回で完結にします!
いよいよ終わるぞー。
大作になったなぁ。
ではまた。
摂食障害のことについても書いてみよう。⑤
昨日行った山梨の綺麗すぎる川。流れが神を思わせたなー。
あららー
とうとう⑤にまでなってしまいました。
そらさんが春休みだったのでなかなか書けなかったー。
さらっと書いて終わるつもりでいたんだけど、よく考えてみたら摂食障害のことをさらっとなんてかけるわけないのよね。
私の人生の大半を占めているこの体験をさらっと書くなんて無理じゃんねー。
まだ最初から読んでない方はこちらからどうぞー。
摂食障害のことについても書いてみよう。① - 藤山家においでよ
摂食障害のことについても書いてみよう。② - 藤山家においでよ
摂食障害のことについても書いてみよう。③ - 藤山家においでよ
摂食障害のことについても書いてみよう。④ - 藤山家においでよ
自分は『摂食障害体質』なんだ、“完治”なんてないんだ、「完治した」なんて思った時が危ない時なんだ、と自分なりの理解が起こった私は摂食障害のことをもっと知りたい!と思いはじめます。
まず、『摂食障害体質』ってどんな体質なんだ?ってこと。
そして私の摂食障害の症状が出なくなった理由。
それから、私に摂食障害の症状が出始めた理由。
ダイエットがはじまりだったって話しはよく聞くけれど、過度なダイエットをしても摂食障害の症状が出ない人もいる。
私もダイエットがはじまりだったけれど、同じようにやってもこんな症状が出ない人もいるのはなんでだ?何が違うんだ?
そして症状がでなくなったのも、なんとなくはわかるけれど、あーこれかーっ!てほどしっくりくる説明ができないし、自分の中でもよくわかっていない。
私はその後、わりと悶々と考える時間が増えていきました。
症状が出なくなったんだし、亮一さんとも毎日仲良しなんだし、娘のそらさんのことも大好きで愛しい日常をおくれているんだからもういいいじゃん!と思う反面、いやぁ…でも…どうして良くなっていったのかよくわかんないし…また再発するかもだし…な日々。
そんな時、とある講座で知り合った、仲良くしてくださる臨床心理士の先生とじっくりお話しする機会に恵まれました。(すごい先生なんだよ!)
その先生は私の話しをじっくり聞き、そしてこんなことを言いました。
「ゆっきぃ。ゆっきぃがやっていたのは『認知行動療法』ってやつなんだよ。」
「これを1人で知識もなくやっていたのはほんとにすごいことなんだよ。」
「これは実際にはプロといっしょに療法としてやるもので、1人ではなかなかできないことなんだよ。」
私は私がやっていたことが『療法』として存在することに驚き、先生が教えてくれた認知行動療法について書いてある本をすぐに図書館に探しに行き読みふけりました。
なんていう本かすっかり忘れてしまったんだけど、読んで涙をぽろぽろ流したのを覚えてる。
なんか感動しちゃったんだよね。(あの本で泣く人なんていないよ!とその後先生に言われた笑 感動するような本ではないらしい。)
認知行動療法って、自分がやっていることや感情をまず認知するってこと。
そしてその自分の認知を、「それほんとう?」と修正していく。
まさに私がやっていたことです。
私が小さいころから持っていた『もう1人の私の目線』が摂食障害の症状が出ている時だけ消えていた(ように感じていた)のに気付き、とりもどしてしつこくしつこく見続けて、自分の認知に気付いたら「それほんとう?」と疑ってみる。そして検証する。
この方法に療法としての名前がついていて、実際に治療に用いられていたことに驚いた。
と同時に、でもこの療法はプロの方とじゃないと難しくてなかなかできないものなのだという話しにも驚いてしまった。
もしかしたら私はなかなかなことをやっていたのかもしれない…と。
私は私のことを自分でド底辺だと思っていたし、今もそんな感覚がなかなか抜けない。
私以外の普通の生活をおくっている全員がまぶしくて仕方がない。
早く“普通”のみんなみたいにならないと。
いや、なれないんだろう一生。
なれないかもだけど、目指してみよう。
そんなことを思って必死に生きていた(る)わけです。
これ、どんな思いが湧くかというとね、
私が出来たこと、知ってることは、みんなとっくに知っててできてること。
って思ってるんですよ。
個の自分のことをもう1人の自分が見つめてる
↑これだってみんなができてることだと思ってたし、
肩書きを外して素の自分で人とお話しする
↑これだってみんなそれが普通にできてるんだと思ってたんです。
後日、その心理士の先生が私にこんなことを言いました。
「ゆっきぃ。摂食障害のことを研究している○○大学(有名大学です)の教授と今度飲むんだけどゆっきぃも来てみない?」
おぉーー!!!
なんというお誘いでしょう。
摂食障害をテーマにしてずっと研究をしている大学教授とお会いできる機会なんてそうそうありません。
私は大興奮して「行く!!」とお返事しました。
教授はとても物腰柔らかいイケメンで、私の話しを興味深くじっくり聞いてくださいました。
私のつたない質問にも丁寧に答えてくれました。
でも、衝撃だった言葉が2つほどありました。
「ゆっきぃさんみたいに徹底的に『肩書きを外す』なんてことをやっている人はどこにいもいないと思いますよ。僕だってそんなことできません。肩書きがなきゃ話せないかもしれないなぁ。」
「摂食障害って難しいんですよ。成果もあがりにくいんです。自殺してしまう人も多い病気です。だから研究する人が少なくて研究テーマとしては人気がないんです。僕はだからそこを狙ったんです。」
教授はとにかく真面目にしっかり研究を続けている方です。
それは事実。
お話しを伺ってもそれはしっかり伝わってくる。
でも…
そうかぁ…
研究テーマに選んだ理由ってそういうことなのか…
と少し寂しくなった。
(まぁそれは仕方ないよね。自分がなった症状を調べてるわけじゃないもんね。)
でもそれより衝撃だったのは、有名大学の教授にまでなったすごい人が(私にとっては“普通の生き方”の上位も上位のすんごい人)「肩書きがなきゃ人と話せないかもしれません。」とおっしゃったこと。
えーーーーーーーー!!!!!
普通に生きてる人達はみんなこれができてるんじゃないの?!!!
私が異常者で、みんなそれを簡単にやってたんじゃないの?!!!
その席に誘ってくれた心理士の先生も「私もそれはできる自信がないな…」みたいなことを言っていたのも驚きだった。
あれ?
私の思ってる“普通”ってなんだ?
私が憧れてやまない“普通に生きてる人たち”ってどんな人たちなんだ?
私は私を普通じゃないド底辺のどうしようもないヤツと思って必死に生きてきたけれど、はてさて“普通にこの世の中をさらりと生きている人”っていったいどんな人たちなんだ?!!
いまだに「私が知ってることなんて世の中の“普通にさらりと生きている人”はとっくに知っていることだし、私にできたことは“普通に…”はできて当たり前のこと。」という認知はなくなっていません。
でも、この教授と先生とお話ししたことで、私は私が憧れてやまない“普通にさらりとこの世の中を生きている人”ってどんな人たちで、私の認知と“ほんとう”のズレがもしかしたらあるのかもしれないと思いはじめました。
亮一さんともたくさんたくさん話しました。
亮一さんは私からするとわりと“普通にさらりと生きてきた人”の部類です。
何の問題もない家庭に生まれ、お金に特に苦労したこともなく(でもお金持ちとかではない)、私立の小学校に行って、中高は公立に行って、まー大学行くかーって感じで私立の4大を出て、就職活動をして就職して…(ここからすこーし道を外れていきますが、ここまではかなり“普通にさらり”としています。)
一方私はなんだかわかんないけど霊感みたいなものを持って生まれ(みんな持ってると思ってた)、大人たちが考えていることがなんとなくわかってしまい、自分の置かれている状況を常に客観的に観ることが物心ついた時からあって(これもみんなやってると思ってた)、いつからか自分の感じていることや思っていることや視えてしまったことを口にすることをやめ、自分はおかしいんだと思いはじめた。
これ!といった決定的な出来事は思い出せないけれど(ないのかもしれない)、じっくりゆっくり思い返してみると、両親からも学校全体からもじわじわと『空気読めよ』『みんなと同じじゃなきゃやばいぞ』という“なにか”を感じ取っていたんだと思う。
自分が感じていることや思っていることはきっと“普通”じゃないんだ。
私が考えていることや興味を持っていることはきっと“おかしいこと”なんだ。
そんなことを思いはじめたのはいつ頃からだろう。
私が“性”に興味を示し始めたのは小学校2年生の時でした。
初オナニーも小2。
これも「悪いことをしているんだ」と思いはじめる大きな要因でした。
性に興味関心があることがバレたらいけない。
こんなことがバレたらきっと両親は悲しむし怒られるし愛してくれなくなる。
こんな汚い私は悪い子だ。
ずっと無邪気で子供らしくなければいけないんだ。
私は私に湧いた性への“純粋な”興味を封印しようとして罰した。
自分の中に湧くさまざまな純粋な欲求や想いを罰し、それを隠していかないと大人たち(世間)に認められない、人から愛されないと思い込んだ。
私は私のことを隠して、“私のほんとう”がバレないようにしないといけないと思い込み、周りが認めそうな“いい子”“いい人”でいようと必死だった。
でも、結局そんな“嘘つきな自分”で愛されたとしても、なんにも嬉しくなくて、それどころか怒りすら湧き、ますます自分を汚い存在だと思っていたんです。
それも途中から無意識に行われていたことがまた恐ろしい。
摂食障害の症状が出たのは、私の身体からの拒否反応だと思います。
私の思考(観念、思い込み)へ身体が反抗したのだと思います。
“私そのまんま”だと愛されないんだという恐怖。
その恐怖たるやすごいんです。
子どもの頃なんて親から愛されなかったら死んじゃうくらいに感じてるんですから。
“そのまんま”で愛されないくらいだったら愛されるように変化させますよ!!だから見捨てないでください!!ってなもんです。
必死です。
その感覚がいつしか世間にもそう感じ始めてしまった。
私は私を必死に隠して、そしてみんなが認めてくれるだろうカタチに変化させようとしたんですね。
でも無理だった。
私は私に嘘をつき続けるのも無理だったし、世間にも親にも嘘をつき続けることができない体質だったんです。
これが『摂食障害体質』。
ある意味『社会不適合者』です。
自分の中の汚い部分も醜い部分もぜんぶぜんぶ認めて、知って、その部分を私はほんとうに醜いと思っているのか?と、とことん観て、自分にとことん正直に生きてないとならない体質。
みんなに合わせる。
自分が良いと思ってなくても空気をよんで「いいね」と言う。
上司の言うことだから という理由で納得してないのに従う。それが仕事だから。
会社のいうことはまったく納得してなくても聞かければいけない。だってそれが仕事だし、普通のことだから。
ママ友さんたちとの井戸端会議には参加しないと。
そうじゃなきゃ仲間外れにされるし、それが人付き合いってもんだから。
まったく面白くない旦那の悪口や子どもへの愚痴も楽しそうに聞かなければならない。
だってそうしなきゃ子どもへの風当たりが強くなるかもしれないし、子どもが仲間外れにされちゃうかもしれないから。
たとえ嫌だとしても母親ならそれくらいやらなければ。
結婚して妻になったんだから家のことはちゃんとやらなければ。
それが女の務めだし、妻の務めだ。
家計の管理もちゃんとして、炊事洗濯掃除もきちんとこなさなければ。
いい奥さんでいなければならない。
たとえそれが苦手で苦痛だとしても。
だってそれが普通だから。女として。
母親になったんだから、子どもの教育はちゃんとしなければ。
人に迷惑をかけない立派な大人に育てるのが親の務めだ。
たとえ自分が立派な大人なのかどうかなんてわからなくても、親になったからには立派な大人に育てあげなければいけない。
だってそれが親のつとめだから。
“教育”や“躾”がなんなのかがわかっていなくても、わかってるふりしているだけだとしてもやらなければ。
↑こんなことをやろうとしたら、すぐに私の症状は再発する(はず)。
自分をごまかしながら上記のことをやろうとしたもんならぜったいになにかしらの症状が発症する。(と思っている。)
まさに『社会不適合』。
でも、これ不思議なもんで、「これこれこういう理由で私はこの時間私をごまかしてでもこの人たちと付き合う。(もしくはこの仕事をする。)」と自分で決めて挑めば症状はきっと出ないと思うんです。
たとえば。
どうしてもそらさんの学費を稼がなくちゃいけない状況になって、そのために不本意な仕事をしなくちゃいけないようなことが起きたら自分で決めて、自分で自覚して、ソコに挑めばきっと症状はでない。(と思う。)(出るかもだけど。)
ポイントは
自覚してるかどうか。
気付いているかどうか。
だと思っています。
今日はここまで。
次回は発症当初と中間期と終了期ってどんな変化があるか、そしてそれはどうしてなのか、ついて書いていきたいと思います!
(書けるのか?)
ではまた。
摂食障害のことについても書いてみよう。④
亮一さんが私とそらさんのために買って来てくれた(ホワイトデーね)UNIドーナツ。
こんなのも食べられるようになってるんだよー!昔はこんなの無理だったもんね…。
書き始めたら書きたいこと多すぎて、もう④にまでなってしまいました。
まだ①②③を読んでない方はこちらからどうぞ。
亮一さんと出会ってからどんどん食べ吐き行為が少なくなり、結婚する頃にはすっかり症状がでなくなった私ですが、結婚生活をおくる上での日々の恐怖心が芽生え始めます。
こんな私が結婚して普通の生活をおくれるのだろうか。
仕事もしながら、家事炊事洗濯を毎日こなし、お弁当まで作る…そんなことをやっていけるのだろうか。
でも、“普通のこと”“みんなが当たり前のようにやっている生活”をやりたくて仕方がなかった私は、不安にかられながらも毎日「今日もできた…」と小さく喜んでいました。
『自分をちゃんと観る』『もう1人の私の目で観る』『ただただ観る』を実践し、疑問に感じたことを確認するために実験する、をし続けていた私ですが、結婚してからは浮かれていたのかなんなのか、またその目が曇り始めます。
いや違うな。
新たな「それほんとう?」にぶち当たったんだな。
結婚当初、私は自分の中の強固な『こうあらねば』に苦しみます。
結婚したんだから『女はこうでなければ』ってやつです。
奥さんになったんだから、掃除も炊事も洗濯も家計管理もしっかりやらねば ってやつです。
それも自分が思っている『完璧』にやらなければ。
そうでなければ亮一さんに愛想つかされるばかりか、また私は落ちこぼれになってしまう…またあのどん底の生活に戻ってしまう、と思い込んでいたのです。
私の母親はかなり『母親』です。
絵にかいたような『母親』。(昭和の)
贅沢しない。
家族が一番。
母性あふるる女性。
家計管理ばっちり。
(掃除と片付けは下手くそだった。から、それが私のコンプレックスになっていた。)
私はいつの間にか、母親のような、いや、それ以上の奥さんになるんだ!ならなければいけないんだ!と意気込んでいたのです。
そうです。
あんなに必死に外していた“肩書き”に自分からまたハマりにいっていたんです。
んもぉーーーー!
なんでよぉぉーーー
ってかんじですよねぇーー
これ、何が問題かっていうと、自分のことのみならず無意識に相手にも“肩書き”を乗っけちゃうんです。
亮一さんにもいつの間にか「結婚して旦那さんになったんだから旦那さんらしく在れよ。」とか思っちゃってたのぉーーー
怖い怖い!!
あと、私に湧いたもう一つの恐怖心は
『結婚して奥さんになったら“女”としてみてもらえなくなるんじゃないか』
ってこと。
ソープ嬢やってたり、クラブホステスやってたり、バーテンダーやってたりしたもんですから、浮気してる男性たちをごまんとみてきたんですよ。
「嫁のこと“女”としてみられなくなっちゃってさー」なんて言葉、たくさんたくさん聞いてきたんです。
自分で自分のことをクソ底辺出身だと思っているわけですから、これは恐怖です。
しかも生まれて初めて心から好きになった人と結婚しちゃったもんだから、もうとにかく嫌われたくないし、失望されたくないし、失いたくないわけです。
でもそれを悟られたくない。
いやーー
楽しい新婚生活でしたが、と同時に苦しかった。
ごねたり拗ねたり泣いたり…いろいろしたなぁ…(恥ずかしすぎる。黒歴史…。)
あんなに純粋でまっさらな亮一さんに『旦那さんらしくあれ』とか『男なんだから』みたいな肩書きを乗っけようとしてたことが思い出すだけで申し訳なくて吐きそうになるわ…。
そんな私の救いは、その恐怖心から目を背けずにまっすぐに見つめる視点がちゃんと存在していたこと。
一瞬曇ることはもちろんあるけれど、癖づけしていたおかげですぐに取り戻せたこと。
それに、奇跡のようだけど、亮一さんにもその視点が最初から存在していたこと。
亮一さんはいつだって『0』からモノゴトを観る視点を持っていたし、持とうとしている人だったこと。
「私、“ちゃんとしなきゃ”って思ってるんだよね。」
「そうじゃなきゃあなたに嫌われちゃうと思ってるんだよね。」
「ちゃんとなんてできないのに、失望されたくないとか思ってるんだよね。」
「それが苦しく感じてるの。」
「私、ちゃんとなんてできないの。」
↑こうやって亮一さんに伝えることができたたし、今もそうしています。
「あなたにも『旦那さん』っていう肩書きを乗っけようとしてたんだよね。」
「ごめんね。」
「私はあなたのことがもっと知りたいのに、知る前に型にはめようとしてたんだよ。」
「私は私を『奥さん』っていう型にはめようとしてて苦しかったんだよ。」
↑これもちゃんと言えるし、それにきちんと応えてくれるのが亮一さんです。
否定せず、でもちゃんと自分の話しをしてくれるのが亮一さん。
私は私の持っている「今日も洗濯できた…」「今日もお弁当作れた…」の毎日の恐怖と安堵も亮一さんに伝えてました。(たぶん亮一さんはそんなこと覚えてないけど笑)(そこがまたいいのよ笑)
亮一さんに自分が思っていること、感じていること、を話す、話せる、聞いてくれる、否定しないでいてくれる、あらたな気づきを与えるような言葉をくれる、それが私にとっての安心であり、安定につながっていった。
そらさんを出産し、あんなに泥まみれだった私が母親になった。
ぜっっったい私に出産育児なんて無理っっっ!!!!と思っていたのに(結婚生活だってぜっっったい無理っ!!!と思ってたんだけどね。)、私が母親になった。
「今日も1日を無事に終えられた…」「今日もゴハンを作れた…」「今日も洗濯できた…」と安堵することに変わりはなかったけれど、その安堵の仕方が少しずつ変化していきました。
「はぁ…♡今日も大好きな人たちの洗濯物を干す役割ができて幸せ…♡」
「はぁ…♡この役割は私に与えられたとっけん…♡」
(ウザいでしょ?笑)
でもこの確認作業、まだまだ終わりません。
そして、ずっと摂食障害の症状が出なくなった理由がわからないままです。
そらさんが4歳になる年、下に生まれた男の子の天太が亡くなりました。
18トリソミーという染色体異常で産まれた天太のお話しは以前書いたと思うのでここは割愛。
天太が亡くなった後、私は自然療法の大家である東城百合子先生のやっている『あなたと健康社』の料理教室に通い始めます。
ずっと行きたかった場所でした。
東城先生にも会いたかったんです。
その料理教室では、最初に東城先生がお話しをしてくれます。
当時もう90歳くらいだったのかな?
80代後半くらいだったかな?
とにかく元気な先生で、ノッてくると2時間くらい話してしまってお料理を作る時間がなくなってしまい、大慌ててみんなで料理を仕上げるなんてことがザラでした。
ある日、東城先生がこんなことを言いました。
「ガンになる人ガン体質なんだってことを自覚しつづけないとダメなのよ!」
「玄米菜食と自然療法でガンがなくなる人がたくさんいるけれど、自分がガン体質だって思い続けないからだいたいやめちゃって再発するのよ!」
「それは糖尿病だって腎臓病だってなんだって同じなのよ!」
私はこの言葉を聞いて、目がバーーーッと開くような感覚に襲われたんです。
そうか。
私は“摂食障害体質”なんだ。
そうかそうか。
これは結局“体質”なんだ。
だから『完治』なんてありえないんだ。
なんだ。
そうか。
私は「“完治”ってなんだろ?」とか「“完治”してないからこんなに毎日確認してるのかな…。」なんてことを思っていたし、それが1つの不安でもあったんです。
いつ症状がぶり返すかわからないから。
なんだ。
もともと『完治』なんてないんだったら求める必要ないんだ。
そっかそっか。
“体質”じゃ仕方ないじゃんねーーー。
だったらその“体質”がどんなもんなのか知っていって、乗りこなしていくしかないじゃん。
なんだなんだー。
『完治』がないってことを理解した途端、私は安心した。
ガッカリしたんじゃなくて安心したんです。
これでいいんだ。
こういうもんなんだ。
そう思えたから。
ここから私にいろんな理解が訪れます。
いろんなことがまた少しずつつながっていきます。
ポイントは『少しずつ』。
そしてそれはいまだに続いています。
毎日の確認もいまだに続いています。(前より薄らいでいるけどね。)
さて。
まだ書きたいことがあるのでもう少し続きます!
摂食障害のことを書いてるつもりが人生のこと書いてるな。
私の人生の大半をコレが占めてるってことだな。
今となってはありがたいことだなぁ。
ではまた次回!
摂食障害のことについても書いてみよう。③
こんな素敵なケーキも自分で焼いて食べられるようになったんだよー!(自分でいうシステム。)すごいでしょー?
つづきです!
①と②をまだ読んでない方はこちらからどうぞ。
まぁまぁ面白いんじゃないかなー。(←ちょい自信なくしてる。一喜一憂しすぎなんよ。)
続きを読む摂食障害のことについても書いてみよう。②
あんなに食べることが恐怖だった私が、こんなに素敵な(自分で言うシステム)ご飯を作って食べることができるようになりました。すごいでしょ?!!
だいぶ間が空いてしまいましたが続編です。
①を読んでない方はこちらからどうぞ。
臨場感あふれる文章だと数名の方からお褒めいただいたのでいい気になってます!(褒められたらすぐいい気になるから。私ってば。)
この“幸江”という名前のついた個体をじっと見つめる視点。
“幸江という名のついた個体”に湧く感情を感知するもう一人の私。
天井から、横から、斜めから、いろんな角度からただただじっと観ている私。
この視点は片時も無くなったことなんかなかったはずなのに、どっぷり“幸江という名のついた個”に浸りきっていたことをうっすらと理解しはじめていました。
でもこれ不思議なんですよね。
ソープ嬢になった時はいつだってその視点でもモノゴトを観ていたし、それ以前だってその視点でも観ていたのに、こと摂食障害のことになるとすっかりその視点で観ることを忘れていたのです。
前回のブログでこんなことを書いています。
ずっとあったはずの、この“もう一人の私“の視線。
幼少期からずっと感じていたはずのこの視線。視点。
(私は小さい時から自分を客観視する視線をもっていました。いつも確認していたんです。)
忘れていたその視線をしっかり感じ、取り戻した瞬間でした。
『忘れていたその視線を取り戻した瞬間でした。』
と書いてますが、これ、ちょっと違ってね。
摂食障害のことについてはこの視点でまったく観ることができてなかったってことなんです。
他のこと、例えば仕事をしている時や、お付き合いをしている男性と一緒にいる時なんかはこの視点でも観ていたわけです。
“個の私”と“それをじっと観る私”。
その2人で生きてるような感覚は幼少期からずっとあったのに、摂食障害のこと全般についてはこの視点がすっぱり忘れられていたのです。
(これがなんでなのかはだいぶ経ってから理解できるのですが、この時はすべてがぼんやりとしていて自分ではなにがなんだかわかっていませんでした。)
“もう一つの視点”“もう一人の私”が1度認識できたからといっていつだってその視点があるようにはなりません。
こればっかりは意識的にその視点を取りに行くようにして、習慣付ける必要があるのです。
とくに食べ吐きへの衝動が湧いた時にはかなり意識をしなければ、すぐに“個の幸江”1人だけの状態になってしまい、メロドラマどっぷりになってしまうのです。(悲劇のヒロインに成りきってしまうんですね。はずーー。)
食べ吐きへの欲求が湧き始めると、私は意識的に観察をするように努めました。
ただただじっと観る。
それを繰り返していると、ある日こんな言葉が頭の中に浮かびました。
「これは衝動なんだ…」
衝動。
人の心に働きかけて行動に駆り立てる刺激のこと。
行動に駆り立てる刺激。
私は私の食べ吐きへの欲求が“衝動”であることを肚から納得し、こんなことを思います。
「衝動なら頭で止めようとしても無理だな…。」
「じゃあどんな刺激があった時にこの衝動が湧くのか確認してみよう。」
「“刺激”とはきっと感情の揺れ動きだな。(仮説)どんな感情の揺れ動きがあった時により衝動が湧くのか観てみよう。」
もう徹底的にこの衝動を止めようとはしない。
止めようとしたら「あ、今止めようとした。」とただただ認識する。
罪悪感や希死念慮が湧いたときにも「あ、今罪悪感感じてるな。」「あ、今死にたいと思ってるな。」と確認し、それはどんな感じなのか?と身体の反応に意識を向けるようにしていったんです。
毎日よーくよーく観察していると、食べ吐きへの衝動が湧きやすいのは“不安感を感じている時”でした。
それから私はその“不安感”と名付けられているソレを観察していきました。
不安感と名付けられているこの感じ。これはなんだろう?
私はどうしてこんなにも不安で悲しくて孤独なんだろう。
この感じはなんだろう。
どこからこの感じはやってくるんだろう。
私はとにかく太りたくないと切実に思っている。
それはなぜなのか。
なんでこんなにも太ることを怖がっているんだろうか。
私はとことんとことん観ていきました。
というか、今までしっかり観てこなかったことが不思議だ。
するとこんな構図が浮かび上がってきました。
太っている=醜い。
醜い=愛されない。
え?
私、こんなこと思っているのか…。
醜い…?
醜いと愛されない…?
太っていると醜いのか…?
そして太っていると愛されないのか…?
それ、ほんとう??
私はこの「それ、ほんとう?」の言葉が私の中に浮かび上がってから、ようやく“ちゃんと”まわりを見始めました。
私のまわりにはふくよかな女性たちがいつだっていた。
その当時も職場にはふくよかな方が何人もいた。
あの人たちは醜いか?
いいや。
ぜんぜん醜くない。
むしろ可愛いくらいだし、みんなから慕われている。
ちょっと待てよ。
ていうことは
太っている=醜い
って、ぜんぜん成立しないじゃん!!
しかも
太っている=愛されない
なんて、もっともっと成立しないじゃん!!!
ちょっと待ってよ…
おいおいおいおい
しかもしかも
私は『太る=醜い=愛されない』とか思ってたわけでしょ?
てことはよ?
『愛されたい』とか思っちゃってるんじゃん!!!!
『わかってもらいたい』とか思っちゃってるんじゃん!!!
『愛されない』ってことが一番怖いって思っちゃってるんじゃん!!!
はーーーーーーーー?!!!
ちょっと待ってちょっと待って!!
私は『愛されたい』とか思っちゃってるわけじゃん?
『わかってもらいたい』とか思っちゃってるわけじゃん?
私…
すごいこと気付いちゃった…
私…
“肩書”みたいなものがなきゃ人と話せないかもしれない…
今は“クラブホステス”という肩書というかカテゴリー?を背負って、それっぽく話してるじゃん?
それがなくなったら?
それもこれもぜんぶとっぱらったら?
私、初対面の人とどうやって話すの?
え?
あれ?
私、丸腰で人と話す時ってどんなやつなの?
やばい。
私は私を全然知らない。
私は丸腰の私で世に出られない。
誰とも素で話ができない。
“何にも持たない私”で人と接することができない。
ていうか“何にも持たない私”なんて人から嫌われるに決まってると思ってる。
なんだなんだ?
私の“不安感”はコレだったのか?!!
ここまでの発見があった時、とにかく戸惑いました。
がくがくと震えるほどの恐怖が湧きました。
私…人と接することができないんだ…
そりゃ愛されないに決まってるし、たとえ「愛している」なんて言われたってなんも響かないどころか「けっ!嘘つきめ。」とか思いたくもなるはずだわ。
だって隠してるんだから。
演じてるんだから。
『わかってもらいたい』なんて思ってる私、傲慢すぎるだろーーー
なんも出してないんだから。
でも、それでいいと思ってたんです。
こんな汚い私は人から愛されるはずがないと思い込んでいたし、そのまま死んでいくものだと思っていたから。
でもジッと観察する視点で観続けていくと心からの叫びが聞こえてきちゃうんです。
「愛されたい」
「誰に?」
「まずは自分に」
「そうじゃなきゃ誰から愛してると言われたって何にもならないし、この不安感はなくならない。」
これはまずいぞ。
大変なことに気付いてしまった。
もう逃げ場がない私は、ここから実験をしていきます。
『肩書を持たずに人と接する実験』
『こんなこと言ったら嫌われると思っていた自分の本音を言ってみたらどうなるかの実験』
もう死ぬ覚悟です。
怖くて怖くて仕方がありません。
でもこの時にも“ただただじっと観るもう一人の私”が活躍してくれます。
“個の私”はがくがく震えるほどの恐怖を感じているけれど、“観る私”はそれをじっくりと感じながら冷静に観ています。
最初に具体的に何をしたかというと、私は当時酒飲みだったので一人でふらっとバーに入り、バーテンダーさんや常連さんと会話をします。
その時にできるだけ自分の職業を明かさず、年齢もできるだけ明かさず、何にもバックがないまま話しをしてみる。
たったこれだけのことなんです。
これがほんとにできなかった。
すぐに仕事を明かして、それを元に会話をしようとするクセがついてたんです。
それを元に、というか、そういう自分でいながら会話をしようとするっていったらいいのかな。
どんな仕事に就いている時でも。(ソープ嬢の時は隠してたよ。)
バーテンダーの時はそんなような顔や態度で会話をしようとする。
クラブホステスのときはそんなような顔をして会話をする。
そんな感じ。
自分からそのイメージに寄せていかないと(演じていないと)会話ができなかったんですよ。
それを全部とっぱらったら?
私に何が残る?
演じているソレがなくなった私はいったいどんなやつなんだ?
それがまったくわからなかった。
怖がりながらも少しづつそんな実験を続け、次は職場で「本音で話してみる」をこれまたすこーしづつ実験していきました。
私はとにかく「できません」が言えない女だったんです。
こんなクソみたいな何もできない女が「それはできません」なんていったらダメでしょ?!と頑なに信じていたからです。
こんな泥まみれのクソ底辺な女が「できません」なんて言う権利、この世にあるわけないでしょ?と疑いもせず信じ込んでいたからです。
でも「それほんとう?」と疑い始めたんです。
その思い込みほんとう?と。
そんな疑いが上がってきたとき、職場に行ってよーく観察してみると「えーそんなのできないよー」や、「それは無理でしょ」「私にはまだそれはできないよー」とさらりと言っている女子がたくさんいたんです。
驚愕!!
そしてそれ聞いている他の人たちはぜんぜん嫌な顔をしていません。
「そうかー無理かー」とか「いや、やれよ笑」とか「じゃあ一緒にやろう」とか、そんな優しい対応をしているんです。
驚愕!!!
まぁ…でも…それをさらりと言っている女子はクソ底辺ではないし…泥まみれでもないし…なんてことも思いましたがこれは実験。
クソ底辺(だと思っている)私がソレを言ったらどうなる??の実験を試みたんです。
「あの…私…それまだできません…」
何ができないと思ったのか内容はまったく忘れてしまったんですが、私は吐きそうになりながら蚊の泣くような声で言ってみたんです。
(死ぬかと思った。くらい怖かった。)
そしたらですよ!!!
「あ、そうかー。じゃあもう一回教えるね。」
「あ、私もまだできなーい笑」
「これ難しいよねー」
…こんな優しい言葉が返ってきたんです!!!
あれ?
私…できませんって言えたし、言ったからって軽蔑されなかった…
むしろ優しくしてくれた…
うそ…
こうやって私は私が思い込んでいた諸々を崩していくために、すこーしずつ、ほんとにすこーしずつ、ぶるぶると震えながら実験を繰り返していきました。
まずは自分が何を思い込んでいるのか気付く。
それから「それってほんとう?」と疑ってみる。
確認のために実験する。
これの繰り返しをとにかく続けました。
もう後がなかったからです。
ほとほと嫌になってしまったからです。
そんな実験を諦めずに続けて、3年ほど経ったときにふと気づきます。
あれ?私、食べ吐きの衝動少なくなってない?
と。
毎日毎日あの衝動との闘いだったのに、気づくと衝動が起こらない日が続いていたり心が平穏な時間が増えていたりしたんです。
「…あれ…?私…日に日に楽になってきてない…?」
「いやいやいや。気のせい気のせい。」
そんな問答を繰り返す日々。
そしてじっと観察して、自分の思い込みに気付いたら「それほんとう?」と疑ってみて、怖がりながら確認して、を地道に繰り返し続けました。
やり続けていると、だんだん慣れてくるもんです。
コツみたいなものも掴んでくる。
そして亮一さんと知り合ってからは、『1人で自分の思い込みに気付く』から、『亮一さんを通して思い込みに気付く』『亮一さんに気付かせてもらう』ことが増え、加速していきました。(これは摂食障害の症状が治まってからも変わりません。結婚してからもこれはずっと続けていること。今もね。)
じんわりじわじわと食べ吐きの衝動が治まり、気づいたら完全に食べ吐きの衝動がなくなっていました。
31、2歳のころです。
14,5歳で発症して、完全に衝動がなくなったのは31,2歳。
約16年のながいながい旅でした。
さて。
見事私に摂食障害の症状が出なくなったのですが、ずっとどうして治ったのかわからない状態が続いていたんです。
なんで?
どうしてあの衝動が出なくなったんだろう?と。
たくさん実験をしたけれど、不安がまったくなくなることはなかったし、今だってそうです。
今こうやって言語化しているけれど、当時はなにがなんだかわからなかった。
いつまたあの症状がでてくるかわからないとずっと思っていました。
今日も大丈夫だった。
また今日も大丈夫だった。
と毎日思ってた。
そして「どうしてよくなったんだかわかんない。」といつも言っていました。
ここ10年くらいで「どうしてよくなったのか」がわかってきたのでこうやって書いているんだけど、次回はその仕組み?的なものが書けたらいいなと思っています。
あくまでも『私の見解』だけどね。
申し訳ない!!
次に続きます!!
摂食障害のことについても書いてみよう。①
バレンタインデーに娘のそらさん(13歳。激かわいい。)といっしょに作ったチョコレートケーキ。亮一さんよろこんでたな。手作り感満載で好き。
執筆リハビリ企画続行中。
(リハビリって言っておけば駄文でも許されるだろうという目論見が働き始めているのはナイショ。)
私は過去に割とひどい摂食障害を患っていました。
症状が出始めたのは14?15?歳くらいの時。
完全に症状が出なくなったのは33歳頃。
まーだいたい17,8年くらい患っていたんですよ。
なげぇーー!!
はじまりはダイエット。
お決まりのパターンです。
私、幼児肥満でしてね。
太り始めたのは小学校3年生くらいの時から。(幼稚園の時からぷくぷくはしていたけれど、別に太ってはいなかった。)
あんまり当時の体重覚えてないけど、誰がみても「お…太ってるねぇ…」と言うくらいには太ってました。
小学校6年の時には60キロはあったと思います。(身長140㎝くらいだったのかな。145㎝くらいかな。まぁとにかく目立って太ってたんですよ。)
小6の時、そんな私を可哀そうだと思った親戚のおばさんが家にやってきて、アメリカのダイエットプロテインとサプリを進めてきたのがはじまり。
「ゆきえちゃん。おかあさんもゆきえちゃんが可愛い服着てるところ見たいと思うのよ。ゆきえちゃんがサイズがなくて可愛いお洋服選べないのがかわいそうでってお母さん言ってたのよぉ。」
優しくておしゃれな叔母さんが私にそう言ったのを覚えてます。
「あぁ。お母さんは私が太ってるのが嫌なんだ。私、かわいそうなんだ…。」
そんな風に思い、めちゃくちゃ哀しかった。
ひどく居心地の悪い時間だったなぁ。
もちろん私自身も太ってることが嫌だったし、痩せたいと思っていたけれど、自分をかわいそうだなんて思ったことなかったし、まさかお母さんがそんなことを思ってるなんて知らなかった。
(母親は私を見て私がかわいそうだと思ってたんですね。そして私が太ったのは自分のせいだと思っていたみたいです。後にそれがわかるんだけど相当後の話し。)
他にも小4の時の担任の先生が私とあと2人太ってる子を呼び出して
「みんなちょっと太りすぎだから身体のことが心配です。きっとお母さんもみんなが太ってること気にしてると思うし、可愛い服も着せてあげたいと思ってるはずよ。」
「明日の朝から3人で走りなさい。」
と言い放ったことがあった。
今思うとすごいことだよなぁ。そんなこと言う先生いる?
次の日の朝から3人で集まって走ったんだけど、なんだかすごくみじめな気持ちになったの思い出した。
あれも嫌だったんだな。私。(みんなすぐ走るの止めちゃったな。)
今書いてて思ったんだけど、こうやって『太っていることは恥ずかしいこと』『太っている私はかわいそう』っていうのが刷り込まれていったんだな。きっと。
話しはもどって。
親戚の叔母さんから説明を受けた私は「これをはじめれば痩せられるの?!!」と希望の光をみたような気がして、きっと高かったであろうそのプロテインとサプリのセットを母親にねだります。
「ほんとに?ほんとにやるの?続けられるの?」
すごく心配そうな顔をしながら聞く母親。
私はその母親の顔をなるべく見ないようにしながら「やる!やりたい!」とお願いをして『魔法の痩せるセット』を手に入れました。
ココア味のマズいプロテインと数種類のサプリを一日1回~2回、食事と置き換えて摂取する方法のそれは、小6の育ちざかりの今までもりもり食べていた子にはかなりきつかった。
でも痩せたくて&ねだって買ってもらったからやらなければ!と夕飯をそれに置き換え、頑張りました。
まーこれがマズい。
今もあの味を思い出せるほど。
黄色いつるつるのカプセルに入ったサプリの匂いもいまだに思い出せる。
三ヶ月ほど経ったある日。
10歳年上の姉が私にこう言いました。
「あれ?ゆきえ、痩せたんじゃない?背中が小さくなってる。」
その言葉を聞いた時、天にも昇る様な気持ちになった。
「ほんと?!!!!ほんとにっ?!!!やったぁーーー!!!」
はい。
ダイエット依存のスタートです。
それからの私は、どんどんダイエットにのめり込みます。
カロリー表をいつも小脇に抱えているような中学生になり、ありとあらゆるダイエットに手を出し始めます。
痩せては太りを繰り返し、(成長期だから食べちゃうときにあったんだね。)食べたい欲求との闘いを常にしているような13歳、14歳でした。
中3の時、家族でお寿司を食べに行きました。
めちゃくちゃ美味しい。
でも酢飯は太る。
砂糖も入ってるし、ゴハンも糖質だし。
太りたくない。
でも食べたくてたまらない。
父親も母親も私のダイエットをいつも心配しているから「今日くらいいいじゃない! 大丈夫よー!」「育ち盛りなんだから食べなさい。」「太ってもいいじゃないか。」なんてことを言う。
私はその言葉を聞くのが一番嫌で、いつもイライラしていた。
あともう一皿食べたい。
でも太る。
でも食べたい。
この葛藤をしながら結局お腹いっぱい食べてしまった私は、家に帰ってきてからトイレに駆け込みます。
吐いてしまえばいいんだ。
なかったことにすればいいんだ。
私の記憶の中では、ここが摂食障害のスタートでした。
この後私は“食べること”“お腹いっぱいになること”にかなりの罪悪感を感じるようになり、拒食傾向が強くなりました。
食べるのが怖い。
食べたら気持ち悪くなる。
吐きたくなる。
だから食べない。
ここで一気に痩せます。
が、私のもともとの体力なのか体質なのか、ガリガリにやせ細るまではいかなかったんだなーこれが。
そしてある日突然異様な食欲にみまわれ、爆食します。
その爆食した後で強い後悔の念が湧きおこり、盛大に吐く。
摂食障害の症状である“食べ吐き行為”が始まりました。
これが高校1年生の半ばくらいでしょうか。
(拒食期間はとても短かったです。とにかく根が食いしん坊なんでしょう。)
食べ吐き行為は日に日にエスカレートしていきます。
学校の成績はそこそこ良かったのですが、どんどん勉強ができなくなりました。
考えているのは食べることと痩せることばかり。
そして食べ吐きをしていることへの罪悪感が増すばかり。
彼氏ができても心から楽しめない。
だって私ってば食べ吐きしてるから。
それが頭から離れないから。
友達もわりといたけれど、100%は楽しめない。
だって私ぐちゃぐちゃだから。
私の頭の中と心の中は
「太ったら醜い」
「醜い私は嫌われる」
「太って醜い私は愛されない」
「だから太らないようにしなければ」
「食べたら太る」
「太るくらいなら死んだ方がマシ」
「空腹になる私なんていなくなればいいのに」
「物を食べる私なんてこの世のゴミだ」
「食べたら吐かなきゃ生きていけない」
「隠れて食べ吐きをやっている私はとても汚い存在だ」
「食べ吐きをしていることがバレたら生きていけない」
「みんな私を見捨てるだろう」
「みんなに軽蔑されるだろう」
こんな言葉で埋め尽くされていきました。
まさ生き地獄。
街を楽しそうに歩いている人達が目に入ると「何がそんなに楽しいの…?」「そんなに楽しいことなんてある…?」といつも思っていました。
本気で「いったい何がそんなに楽しいんですか?」と聞きに行こうかと思ったことが何度もあるくらい。
朝が来ると「はぁ…今日も朝がきてしまった…」と毎日絶望していました。
本気の絶望です。
今日寝たら私が消えていなくなっていたらいいのに!!!と毎晩思っていたから。
成人していろんな仕事をしたけれど、いつだって私は泥まみれでぐちゃぐちゃだったから「普通の人に見られるためにはどうしたらいいか」を常に考えていました。
こんなぐちゃぐちゃの醜い姿がどうにかバレないように、食べ吐きをしていることがバレないように、いつだって気を張って人と付き合っていました。
普通に生きている人達の姿の眩しさったらなかったなぁ。
ああなるにはまだまだ遠い。
あそこまで行ける日が私にくるのだろうか。
朝ごはんを食べて、昼ご飯を食べて、おやつを食べたり食べなかったりして、それから夕飯を食べる。
そんなこと、ぜったい無理。
しかも人と楽しく、なんてほんっとに無理。
誰かと一緒に食事をしたら、すぐに吐くことを考えてしまうから。
唯一大丈夫だった方法が「お酒を飲みながらつまみを食べる」ことでした。
もともとお酒が大好きだったし(味も)、お酒を飲みながら人とご飯を食べるのは感覚がマヒする&そんなに食べなくても成立する(飲んでるから)ことがわかり、酒量が増えていきました。
仕事がお休みの日が一番の地獄だった。
朝起きて絶望。
やることもない。
行くところもない。
というか、毎日二日酔い状態だから朝からとにかく怠い。
お腹が鳴る。
ひどい絶望がさらにやってくる。
むくむくと湧き上がる空腹感と食べ吐きがしたい欲求。
気が付くとお金を握りしめて玄関を出ている私。
どこで何を買おうかと真剣に考えながら足早に歩く。
早く早く。
あのスーパーであれとあれとあれを買って、帰りにコンビニであれとあれとあれとあれを買って…
頭の中は食べ物を詰め込んで吐き出すことしか考えられない。
早く早く。
この衝動たるやすごいんです。
誰も抑えることなんてできない。
両手にいっぱいの買い物袋を持ち、息を切らして部屋に戻ると一気に食べ吐き祭りの開催です。
とにかく食べ物を口に運ぶんだけれど、後で吐きやすいように食べる順番も考えます。
よくやってたのは“最初に納豆を食べる”ことと“お水をたくさん飲む”こと。
どちらも吐くときにこれをやっておくとスムーズに吐ける。最後まで。
これぞ経験に元づく知恵です。笑
普段太るからと禁止しているような食べ物をとにかく口に入れて飲み込む。
この時、最初はほんとに至福なんです。
「…美味しい…」と呟きながら詰め込んでいた時もたくさんあります。
でもその後はとにかく吐くためにお腹がパンパンになるまで食べまくる。
しかもゆっくり食べてたら消化がはじまってしまうから急ぐんですよ。
食べながら「まだ消化はじまってないよね?私の身体、食べたものまだ消化してないよね?」なんて焦るんですよ。
お腹がぱんぱんに膨れ、限界が来たらトイレに駆け込む。
そうそう。
大き目のスプーンを忘れずに持っていかなければいけません。
何度も何度も吐きすぎて、指を突っ込んだくらいじゃ吐けなくなってくるんです。
おえっ!ってならなくなるんですよ。人間の身体ってマヒるんですよ。
大き目のスプーンにトイレットペーパーをぐるぐる巻きにして、それを喉の奥に突っ込む。
喉の当てる場所も試行錯誤して吐きやすい場所を見つけたりして。
で、嘔吐するわけですが、これがほんとにつらい。
よだれでぐちゃぐちゃ。
涙も出てくるし鼻水もでてくる。
とにかくぐっちゃぐちゃ。
心も顔も。
ぱんぱんに食べ物を胃に詰め込んだと思ったら、すぐに吐き出すわけじゃないですか。
そうすると、脳みそが混乱するんですよね。
脳がバグる。
口を漱いで、顔を洗って、トイレの簡単な掃除をして、食べ散らかしたゴミを虚しい気持ちで片づけていると、だんだん身体がどろどろに溶けていくような感じになるんです。
起きてられなくなって、視界がぼやけてくる。
どろりとした世界がやってくるんです。
この時、私は何度も幻聴を聞きました。
「ゆきえー!ゆきえ?いるの?」
ここにいるはずのない母親の声がしっかり聞こえたり。
「あれ?いたんだ?寝てるの?」
別れた彼の声がしっかり聞こえたり。
そんなこんなしてる間に、どろりと眠りにつく。
もうどろどろ。
いつも30分から1時間くらいで起きるんだけど、起きてからしばらくはとにかく頭が痛い。虚無。「はぁ…」ため息は何度も。
その後、お腹がグーと鳴りだす。
そりゃそうだ。
お腹の中にはなにも入ってないんだから。
「ふぅ…」
怠い身体を起こした私は気付くとまたお金を握りしめて玄関を開けるのです。
この日の朝からの行動をこうやって繰り返すんですよ。
お休みの日は、この地獄の行為を3~4回繰り返して、死にたくなって終わります。
だいたい最後にはお酒をガンガン飲んで、酔っぱらって気絶するように寝て、朝を迎えます。
ね?
地獄でしょ?
改めて書いてみると
よく今こうやって生きてるなぁと奇跡のように感じますね。
20代前半はこんな日々が続きます。
誰かと暮らしていればこういう日が少なくなるな。
人目があれば食べ吐きが少なくなるな。
という理由で何度か同棲したりしますが、同棲の理由がそれってどうよねぇ。
当時の私にとってはかなり切実なことではありましたが。
そんな地獄のような日々を過ごしていた私に、24歳だか25歳くらいの時に最初の転機が訪れます。
とにかく私はほとほと疲れていました。
もういい加減にしてくれと心から怒っていたんです。
自分と神に。
これは一体なんだ?!
どうしてこんなことになってるんだ?!!
いつまで私はこのままなんだ?!
死にたいのに死ねないじゃん。
消えてなくなりたいのに消えないじゃん。
は?
生かしたいの?
殺したいの?
いったいぜんたい何がしたいんだ!!
止めたくても止められない、こんなクズな私はここにいてはダメなんじゃないのか?!
どうしてこんなことに!!
相変わらず食べ吐きの衝動が抑えられず、盛大に吐いたあと、ぐっちゃぐちゃの顔のまま、わんわんと泣き、そこら中の物を壁に投げつけ、神と私に文句を言い続けました。
「いいかげんにしてっ!!!」
「なんなのっ!!」
「殺すなら殺せっ!!」
その時、そんな私をジッと観ているもう一人の私の視線に気付きました。
そのもう一人の自分の目から観ると、やっていることがひどく演技じみていて滑稽だと感じていることに気付きました。
「…へ?あはは…さてと…」
急に恥ずかしくなった私はそそくさと顔を洗い、口を漱ぎ、投げ散らかしたものを淡々と片付け始めました。
それから静かに涙を流しながら、「あぁ…これが“淋しい”って感情なのか…」「あぁ…これが“孤独”って感情なのか…」としみじみ感じました。
感情ってただの身体の反応なのか…この感じをそう名付けているのか…みたいなことを思ったのを覚えています。
ずっとあったはずの、この“もう一人の私“の視線。
幼少期からずっと感じていたはずのこの視線。視点。
(私は小さい時から自分を客観視する視線をもっていました。いつも確認していたんです。)
忘れていたその視線をしっかり感じ、取り戻した瞬間でした。
そこから私は“自分をただただジッと観る”を意識し始めます。
食べ吐きの衝動が湧いたらそれをただジッと観る。
罪悪感を感じたらそれを観る。
衝動はなかなか抑えられません。
お金を握りしめて玄関を出る時も止めずにただ観る。
食べ物を詰め込んでいる時もただただ観る。
「そうか。今私はがんがん食べ物を詰め込んでいるんだな。」
「けっこう苦しいな。」
「吐く時ってここが痛いんだな。」
自分に対して「こんな奴生きてる価値ねーわ」と責めた時も「あぁそう思ってるんだな。」とただただ観る。
その視点はずっとあったはずだから、ただ意識をそちらに向ければいいだけ。
ジャッジしたらジャッジしてんだなと観るだけ。
そうしたら何が起こったと思います?
食べ吐きの症状がきえたんです!!!
とか言いたいんですけど、そんな簡単にすっきり終わるわけありません。
人間って、そんなもんじゃないんですよ。
何が起こったか知りたい方は、よかったら次のブログも読んでね。
今私は元気に生きてるってことは良くなってるってことだからとりあえず安心して次も読んでくださいねー。
とりあえず私ケーキ焼かなきゃだから一旦ここで閉めます!
(明日亮一さんのカレーの会なのー!一回ケーキ失敗したから焼き直さなきゃなのぉーー!!)
懲りずにまた施術のことを書いてみよう。
うちのハルくん。私の膝の上にむりやり乗っかって「ぜってー降りない」って時の顔。
執筆リハビリ企画続行中。(そんな企画だったか?)
さて。
今日は、何度も挑戦しては撃沈している『自分の施術について書いてみる』をやってみます。
これが書けねーんだなぁーー
自分で自分のやっていることを書くのは、こっぱずかしい っていうのもあるし、おこがましい ってのもある。
あとは自分で何をやっているのか無自覚なところもある。
勝手に手が動いてる みたいな。
そしてあとから理由をみつける 的な。
(あ。なんかカッコいいこと書いちゃってはずい。。)
まぁでもチャレンジ企画だからやってみよう。
いくつになってもチャレンジし続けたいですよね!!(青汁のCM風)
私が施術者になったのは今から23年前。(もうそんなになるの?!こえーー!)
26歳の時、雑誌記者と編集のお仕事をしていた私は、徹夜明けのぼろぼろの身体を引きずりながら大阪なんばの街を歩いていた。
「死ぬ…このままじゃ死ぬ…」
仕事も多忙だし、その上当時の私はまだ摂食障害の症状バリバリ。
食べ吐きしまくりだし、酒も飲みまくっていました。
ぼろぼろのぼろぼろ。
ちょうどそのころリフレクソロジーが世の中に出始めていて、なんばの街にはリフレクソロジーを流行らせた大手の会社の路面店ができていた。
(リフレクソロジーブームはこの後くらいにやってきます。)
(リフレクソロジーってわかりますかね?足裏揉むやつです。←ざっくりすぎる。)
私はふらふらと緑の看板を掲げているその綺麗なお店に吸い込まれるように入っていきました。
「…すいません…。一番長いコースで…(金ならあるんだよ…)。」
とにかく休みたい。寝たい。
だったら早く家に帰れよ!と思う方もいらっしゃるかと思いますが、なにせ私は摂食障害の女。
帰ったら帰ったで食べ吐き祭りを開催してしまうのです。
とにかく癒されたい。
薄暗い店内でささやくように話す優しい女性に、ゆったりとしたリクライニングチェアに横たわらせてもらい、ふくらはぎから足裏にかけての丁寧なイタ気持ちいい施術を受けた私はよだれを垂らし昇天。
そして「こんな仕事もあるのか…」と開眼。
癒されて少し元気になった私は、家に帰ってすぐにそのお店を経営している会社を調べました。
「え?スクールもやってる…。生徒募集してる…。テストに合格したらあのサロンで働ける…。」
私はすぐにスクールに申し込み、お金をさっさと振り込んでました。
雑誌のお仕事を綺麗に辞め、私はいつの間にかリフレクソロジーのスクールに通い始め、技術の沼にずぶずぶと陥っていったのです。
それはそれは“沼”でした。
今もその沼から抜け出せずにいます。
それくらい私にとって技術は奥深く、興味深く、抜け出せないほどに悔しいものでした。(今も)
リフレクソロジーの会社ではインストラクターにもなりましたが、これまた“技術を教える”というもう一つの沼にハマりました。
その後私は整体の学校に通い始め、整体のお店に入り、整体師としてお仕事をしはじめます。
ますます沼る。
わからないこと、できないこと、治せない症状がとにかく多すぎて、悔しくて悔しくて泣きながら仕事に行く日多々。
お客さんに相談されてもちゃんと答えられない、何もしてあげられないことも多く、ほんとに毎日泣いていたときもあったなぁ。
本を読みまくり、いろんなところに施術を受けに行き、「教えて下さい!」といろんな人にお願いしに行ったりもしました。
それでもどうしても納得がいかないし、得た知識も技術もバラバラで、どうにも繋がらない。
いつも落ち着かない日々を過ごしていた私は、もういたたまれなくて「私、タイに行ってくる!」と整体のお店を辞めます。
「タイでタイ古式マッサージ習ってくる!」と。
一ヶ月ほどタイのチェンマイとバンコクに滞在し、タイ古式マッサージの学校に通い、ディプロマを取得しました。
それでもなんにも変わらない。
この落ち着かない気持ちはなんにも変わらない。
帰国後、町田のとあるサロンに勤め始め、整体、アロマトリートメント(そこのサロンで教えてもらいました。簡単なやつね。)、リフレクソロジー、タイ古式マッサージ、を施す施術者になりました。
お客さんに施せる技術は増えたし、以前よりも相談されたら答えられることが増えたけれど、まったく納得いかない。
私の中ではまだいろんなものがバラバラなままでした。
その後、私はタイに行く前に勤めていた整体店を経営している社長から「新しい店舗を出すから店長にならないか。」とオファーを受け、女性だけの整体リラクゼーションサロンの店長になります。
この仕事をまったくやったことがない子達に、“技術も接客も1人で教えながらお店を運営していく”というかなりハードなことに挑戦しました。
店長になったんだから誰よりも指名をとらなければいけないし、そうでなければ説得力がないじゃないか!とますますプレッシャーがかかる。
がむしゃらに毎日施術をこなし、指名の数はどんどん増えていくけれど、相変わらずまっったく納得がいかない日々。
何かがちがうんだよ。
どうにもしっくりこないんだよ。
バラバラのままなんだよ。
私の中でバラバラのままなんだよ。
これ以上なにをやったらいいんだよ。
不調を訴える目の前の人をどうにもしてあげられないなんて施術者じゃねーだろ。
知識だけ増やしてもだめなんだよ。
技術だけ増やしてもだめなんだよ。
なにかが欠けてるんだよ。
それがなんだかわかんねーーんだよぉぉぉぉーーーーー!!!
もう毎日頭を掻きむしるような思いが募ります。
施術をやってても辛いだけ。
スタッフには技術を教えるけれど、教えながら「だからさ、これを教えたからって結果たかがしれてんじゃん。」と自分を罵る。(当時のみんなほんとごめん。でも真剣に教えてたよ。)
当時住んでいたマンションのとなりに古い趣のある神社があり、たまにお参りに行っていた。
(この時亮一さんと結婚したばかりでさー♡まぁその話しはいいか。)
施術のことで悩みすぎて、駅から泣きながら帰って来たある日。
私はふらふらとその神社に立ち寄った。
お賽銭箱の前にどさっと荷物を置き、お賽銭を入れ、パンパン!と手を叩いた後、私は号泣しながら神さまにむかって悪態をついた。
「あのさっ!!!あんた何考えてんのっ!!こんなにさ!こんっっなに悩んでるのに、こんっっなに目の前の人をなんとかしてあげたいって思ってるのにっ!!
私に力を与えてくれないなんてあんた何やってんのっ!!いいかげんにしてっ!!!
職務怠慢だよっ!!ほんっっっとにいい加減にしてっ!!!毎日お願いしてんじゃん!!私に力もヒントも与えないなんてどうかしてるわ!もーほとほと嫌になったわ!」
神社のお賽銭の箱の前で大号泣しながら悪態をつく変態女。(地団駄も踏んでました。。)
頭おかしいな…。
「うぅ…もうさ…つらいんだよ…苦しいのっ!!もーーなんとかしてよー泣
私さ、めちゃくちゃよくやってると思わない?ねえ!!
私にわからせてよ…。力をちょうだいよ…泣
もう…もうさぁ…。」
そして泣き落とし。笑
しばらく号泣した私は「はぁ…」とひとつため息をつき、「こんなことしたってどうにもならないか…」としょぼんと肩を落として新婚のお家に帰りました。
「この私の変な話しを亮一さんに聞いてもらおう…」と呟きながら。
それから数日後。
整体サロンに1人のお客さまがふらっとやってきます。
作務衣を着た、ヒゲを生やしたダンディなおじさまです。
見た目は陶芸家のようでした。
たまたま私が施術を担当することになったのですが、寡黙な方で多くを語りません。
「腕がかなり疲れているので腕をしっかりやってくれますか?」とおっしゃったのでやっぱり陶芸家か…と思ったのを覚えています。
帰りに「とてもよかったです。名刺をいただけますか?指名をしてもいいですか?」と言ってくれたのが嬉しかった。
それから数週間後。
その方が指名でまた来てくれました。
相変わらず寡黙で何も語りません。
施術後、お茶をお出しした時に「腕がお疲れだとおっしゃってましたが、腕を酷使するようなお仕事なんですか?」とさりげなく聞くと、ダンディおじさまは少しはにかみながら「うーん…そうだね。えーと…。まぁ同じような仕事をしてるんですよ。」と歯切れの悪い言い方で答えました。
「え?同じようなお仕事…?ですか?」
この時、私の胸が少しドキンしたのを覚えています。
「まぁ…同じような…というか…。説明が難しいな…。小杉さん(私の旧姓)(結婚してもこの名前で仕事してました)はほんとに一生懸命やってるなと思ったんだけどね。もしよかったら僕の仕事を見に来ますか?」
「行きます!!!いいんですか?ほんとに行きますよ!!」
「ははは。ほんとにいらっしゃい。」
具体的になにをやっているのかまったく説明されなかったのに、私はここはぜったい逃しちゃいけないと感じてすぐに「行きます!!」と答えていました。
数日後。
私はそのおじさまの施術の見学に行きました。
本来ならぜったい見せてくれないものです。
見せたり教えたりするにしても、有料だったりするものです。
「よく来たね。」
ダンディおじさまは斎藤先生というすごい治療家の先生でした。
にこやかに出迎えてくれて、患者さんに私が見学する旨を伝えてくれました。
(もう現在は治療をしていません。)
先生の元には変形性膝関節症の方、リウマチの方、パーキンソン氏病の方、腎臓の病気の方、ガン、糖尿病、うつ病、などあらゆる症状の方がたくさんいらっしゃってました。
先生は治療の合間に「筋肉っていうのはね…」「大腿骨っていうのは…」「頭蓋骨ってこうなってて…」などなど、私が今まで聞いたこともないような内容の説明をしてくれました。
治療内容も「なに?!!これなにやってるの?!!」と驚くことばかり。
目をまんまるくしながら治療をずっと凝視している私を、先生はたまにちらっと見ては「ふふ」と小さく笑っていたなぁ。
患者さんが少しと途切れた時、先生は「少し話しをしよう。」と私を椅子に座らせました。
「今日はよく来てくれたね。今までみててどうだった?」
「え…と…。初めてみることばかりでただただ驚いてます。今日は治療中に見学に来させていただいてありがとうございます。ありがたすぎます。」
「そう。それはよかった。小杉さんはほんとに一生懸命やってるのが施術のときに伝わってきてね。とてもじょうずだしね。でも苦しんでるのも伝わってきたんだよ。だからなにかヒントになればいいなと思ってね。」
先生は私の施術を受けて、一生懸命さとそれにともなった苦しさを感じたといいました。
なんとかしたいと切実に感じているのが伝わってきたと。
「よかったらまた来なさい。小杉さんならいつでも無料で教えてあげるから。」
先生の治療院は半年先まで予約が埋まっているようなところでした。
遠方からもたくさんの患者さんがやってくるような先生だったのです。
先生の治療院からの帰り道、私は嬉しすぎてスキップをしながらかえりました。(マジで)
先生から教えてもらったことを何度も何度も脳内で反芻して、「そうか…そうか…」と何度も頷きました。
それから数日後。
ずっと施術のことや身体のことを考え続けた私は、ずきゅーーーん!と雷に打たれたように「そうかーーーー!!!!」と理解がやってきたのです。
そうか。
そうかそうか。
これがこうなって、それがああなって、そうかそうか。
だからここがこう歪んで、それであそこがこう歪むのか。
あーーー
そうかそうか。
ぎっくり腰ってこういう理由でこうなってああなって起こるのか。
はぁーーー
そうかそうか。
変形性膝関節症ってこれがこうなってああなってるのか。
おーーー
更年期障害ってこれがああなってこうなってそれで症状がでるのかーーーー
私の中ですべてが繋がった。
バラバラで気持ち悪かったものが綺麗におさまり、みごとにつながったんです。
もうこれが気持ち良くてねー。
そこからは人の身体の歪みも一瞬みればだいたいわかるようになっていき、お身体の相談を受けてもすぐに自分の中に仮説をいくつか組み立てられるようになりました。
施術の内容も先生から教わったものをとりいれ、少しづつより良いものに変えていきました。(先生のところにはしばらく通い、ほんとにほんとにお世話になりました。が、妊娠出産を機に疎遠にいってしまいました。)
そこからは技術も知識もさらに深めていくことが楽しくて楽しくて。
あんなに苦しかったのが嘘のようになったんです。
点と点が繋がるまでが苦しい。
でも点をあつめないと繋げることもできないし、点の数が少なかったら繋がった世界は狭くて浅くて小さい。
これは私にとって大きな経験で、施術に限った事ではないんだということを学びました。
まーそこからも沼は続いていて、終わりがありませんが。笑
先生は私を弟子と認めてくれて、いろんなことをおしげもなく教えてくれました。
私にとって恩人です。
そこから私は先生の教えをベースに、ありとあらゆる本を読み、いろんな施術を受けに赴き、自分の施術を作り上げていきました。
まだまだ発展途上です。
よくお客様に「ゆっきぃのこれはどこかで習ったやり方なの?」と聞かれることがあります。
そういうときめちゃくちゃ答えに困るんです。
『いろんなことを試して、学んで、悶え苦しんで試行錯誤した結果』だからです。
技術の習得ってそういうもんなのでしょうね。
身体の歪みを観る。
その原因を探る。
その歪みはとるべきものなのか、今はとらない方がいいのか見極める。
歪みをとるならどこまでとるのがベストなのか探る。
それはいつ、どこからはじまったのか探っていく。
それはどうしてはじまったのか。
身体の不調を感じてる部位とその歪みはどう関連しているのか。
不調が始まったのはどこからなのか。
緩んだほうがいい場所と、よいエネルギーが充満してしっかりしていた方がいい場所をしっかり把握する。
抜いた方がいいのか、満ちたほうがいいのか。
血液循環が滞っているのはどこか。
それはなぜ、どこからなのか。
その症状は心因性のものなのか。
もしそうならどれくらいの強さなのか。
丹田のエネルギーは今のこの方にとってベストなのか。
弱まってるのか強すぎるのか。
もっともっとみていることはあるけれど、私は施術中にだいたいこんなことをみています。
そしてもっとも大切にしていて、ぜったい忘れないようにしているのは
『目に前にいる方をリスペクトする』です。
ここにいらっしゃるまでどんな人生を歩んできたのか、どうして今このお身体であるのかということに思いを馳せて施術しています。
これは当たり前のことなんです。
こうやってわざわざいうようなことでもない。
のですが、人間とはおろかなるものでして。
油断するとすぐに奢って忘れてしまう。
技術を必死に磨いたり、知識がどんどん増えてくると、この一番大切なことを忘れてしまう。特に私は愚か極まりない人間なので、常に意識してないとなんですよねぇ。とほー。
それからね、次にぜったい忘れないようにしていることが
『私は治せない』『人のお身体のことも心のこともわからないことだらけだ』ということ。
自分の身体を治せるのは自分だけなんですよ。
お医者さんだって治せない。
ほんとは一瞬でその方が抱えている症状や痛みを取り除いてあげたい。
そんな力が私にあればいいのに!!!と何度も切望しました。
が…
残念なことにどうやら私にはそんな力はないみたいです。
ほんとに残念過ぎるわ…。
施術者とクライアントさんは、2人で一緒に相談しながら今抱えている症状や悩みを改善していくもの。
そしてそれがお客様とできている時が私が一番幸せを感じる時です。
私はそのために今日も勉強をします。
私はそのために今日もよりよい技術のことを考えます。
施術と人間を愛してやまない私は、今日も大変だ大変だといいながらもニヤニヤしながら施術と人間のことを考えて生きています。
そして「依頼がなくなったら私の施術者としての仕事が終わる時だな」などど考えて日々を過ごしています。
なーーーんて
めちゃくちゃ真面目に書いたけど、施術中下ネタ全開のときもあるし、私のめちゃくちゃなエピソードをお話ししてげっらげら大笑いだけしてるときもたくさんあります!
亮一さんへの惚気ばっかり言ってるときもあるし。笑。
今年50歳になるんですよ。私。
20歳くらいの時と考えてることあんまり変わってないのになぁ。
立派な大人になることはもう諦めたので(諦められないんだけどさ)、青二才のままでお仕事を人生をやっていこうと思っています。そんな人間です。
あれ?
施術のこと書こうと思ってたのに、“自分はこういう人間です”みたいな終わり方になってしまった…。
ていうかさ、青二才ってなに?使う?
(「青」は未熟の意。「二才」は若者の意。だってさー。)(←調べた)
はあー
長くなった。
し、結局よくわかんないですよね。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
わりと真剣にお仕事してますし、90分~120分の施術の中身ってこんな感じでいろいろ詰まってるんですよーってのが伝わるといいなぁ。
もしよかったら一度私の施術、受けてみて下さいね。
ご縁なんだよなぁ。なんでもかんでもご縁なんですよねー。
また違う角度で気が向いたら書こうかな。施術のこと。
ではまた。