9月の半ばころ、なんとなぁくこれをやりたんだよなぁ…と前々からうっすらと感じていたことを亮一さんに小さな声で言ってみた。
「私さぁ、実はこれをやってみたいんだよねぇ。」
と。
この時点ではほんとにやりたい気持ちはうっすらとだったし、できるわけないかぁとやってみてもいないのに諦めていた私。
正直めんどくささもあったし。
でも亮一さんは「お!いいねぇ!やってみたいならやりなよ。いいじゃんいいじゃん!」と言ってくれて、それを聞いた私は「うん!そうだね!私、やる!」と急にやる気になってしまった。
相変わらず単純だな。
私のその“やりたいこと”の詳細はまだ伏せておくけれど(なんだか気恥ずかしいので。)、私がそんなことに挑戦するなんて数年前の私にはまったく予想がつかなかったことなのです。
「うん!やる!」となってしまった私は、その“やりたいこと”に真正面から取り組むことになったのだけれど、こんなにめっちゃくちゃ集中したのはほんとに久しぶりだった。
関係ないけど家のかわいこちゃんたち。左がハルくん(♂2歳)。右が夏(♀2歳)。めっちゃ甘えん坊。
数年前から私は『なんにもしないしなんにも出来ない私』に出会い、『生産性のあることを何もしないクズな私』をあえて表に出して、もがきながら見つめることを本気でやってきたのだけれど、これはものすごく辛い作業でした。
さっきFacebookの投稿でOSHOの言葉があがってきていたのだけれど、ちょっとここで引用しておこうかな。
退屈に直面するには大きな勇気がいる。
人は退屈を感じはじめたとき、初めて人間になる。
うむむ。
『退屈』ってほんとに退屈なのよね。(何言ってるか、わかる?)
それはものすごい恐怖なのですよ。
私はこの数年、この『退屈』を死ぬ気で味わったような気がしています。
(まぁ私の『死ぬ気』なんてたかが知れているのですが。)
退屈に直面するのには大きな勇気がいる。
それはほとんど死ぬようなものだ。
実際のところ、それは死ぬより難しい。
しかし、仕事をしたり、お金を稼いで貯金をすることに喜びを感じ、レストランで食事をし、映画や旅行に行ったり、あれやこれや参加しているうちは人は退屈なんかしないし、楽しんでいる。
しかしそれは、まだ本当の人間ではないのだ。
人は退屈を感じはじめたとき、初めて人間になる。
『退屈』って『虚無』を感じやすいのです。
何かをやって、自分のやっていることに“価値”や“意味”を見いだせれば、もしくは“価値”や“意味”を頭でこねくりまわしてひねり出せれば、いや、誰かから「価値があるね!」「意味があるね!」と評価されれば、『虚無』を感じなくてすむ。
私って『無価値』なのかも…と恐怖を感じなくてすむ。
だから“何か”をやり続ける。
自分の存在に『意味』や『価値』が有ると信じたいからね。
私たち夫婦は亮一さんがこのブログでも書いていたように、いつだって「0(ゼロ)から会話をしよう」と意識しているし、「0(ゼロ)から話しを聞こう」としています。
その記事はこちら↓
だから私は『虚無』という、ものすごい恐怖を感じてしまうソレから逃げるのではなく、『虚無』に飛び込もうとしました。
『価値がある』とか『無価値だ』とかは、誰がきめるのだろう?と疑問に思い、あえて『無価値感を感じる方』に身を差し出しました。
そして『私』とはどれのことだろう?ときょろきょろ探していました。
『私の0(ゼロ)』を知りたかったから。
ここ数年で「これが私だ」と思い込んでいた観念が、ガラガラと崩れていく音を何度も何度も聞きました。
「私ってこういうやつだから~」と人前でさらしていた『私』を疑い始め、私がいつの間にかもっていた『私像』がどんどん崩れていった時はどうやって人と話したらいいかわからずに戸惑ったりもしたし、怖くて泣いたりもしました。
「これが私なんだよねぇ~」と人前でさらしていた『私』は、どこにもいない虚像でした。
私が決めた、私がいつの間にか思い込んでいた、『虚』の『像』でした。
そしてどこまでいっても『私』は曖昧模糊としていて、実態がみつかりません。
なので『価値がある』とか『無価値だ』とかが成り立たないのです。
だって、どこまでいっても『私』が曖昧模糊としているのですから。
そして『虚無感』というのはあって当たり前の感覚なのだと知りました。
だって、この世に確定しているものがないのですから。
「掴めるものがなにもない」世界で「正解を誰も知らない」のですから。
嫌ぁな気分の時は、その『虚無』や『無価値』をなんとか自分の世界から排除しようとしている時だと知りました。
自分に『価値』をつけようとしている時や、『虚無』を感じなくしようと躍起になっている時は疲れるし、とても嫌ぁな気分になる。
その嫌ぁな気分を人は“不安”と名付けたのでしょう。
「お金がないから」とか「愛されていないから」とか「最愛のパートナーがいないから」とか「先行きがわからなくて」とか、人はいろんな『不安の理由』を語ります。
そして“不安”と名付けられた嫌ぁな気分を少しでも感じなくするために、“何か”をやり続け、“何か”を得ようとする。
「お金がもうかれば!」「愛し愛される相手が現れれば!」「事業で成功すれば!」「将来の安定を得られれば!」「たくさんの人から賞賛されれば!」「人から崇められれば!」「自分が特別な存在だと認められれば!」「社会貢献すれば!」「たくさんの人を救えば!」「世界平和を祈れば!」「霊能力を手に入れれば!」「特別な才能を発揮できれば!」「スタイルが良くなれば!」「顔が美しくなれば!」etc…
ちょっと前から流行ってる『自分のほんとうにやりたいことをやろう!』ブームって難しいことなんだなぁと知りました。
『ほんとう』がわからないんだものね。
それを知るためには『虚無』や『無価値』に気付いて、飛び込まないとなんだから。
『退屈』と『虚無』を「うおー」とか「ひゃー」とか「うえーーん」とか、苦しい苦しいとか死んじゃうぅぅ~とか言いながら体験し、ある程度降参した私。(本気の降参はまだできていないところが悔しいよなぁ。)
そんな私に久しぶりに『やってみたいこと』が現れた。
私の思考は相変わらずバカなので、「そんなことやっても無駄よぉ~」とか「はっずかしい~」とか言うのだけれど、そんな声を聞きながらも亮一さんにぼそぼそと言ってみて、身体が動く方に身をまかせてみました。
そしたらさ!
めっちゃ大変でやんの!
もー疲れる疲れる。
苦悩するわくたくたになるわ、もー大変。
でもね、不思議なことに止めないのです。
身体がやりたがるのです。
「やりとげるまであきらめない!」なんて思いが湧き上がるのです。
そして9月30日に私はその『やりたいこと』をやりとげた。
まー疲れたけど気持ちよかったのよ。
「やった!」なんて清々しく思っちゃってね。
亮一さんにもそらさんにも感謝の気持ちがあふれるほど湧いちゃってねぇ。
この『やり遂げたこと』には一応“結果”というのがでるものなので、「あぁー良い結果が出ればいいなぁ」と思うのです。期待もしてしまいます。もちろんね。
でもそれよりも「これをやりたいんだ!」という思いが湧いたことが嬉しかったし、それを自分がやれたことをすごい!と思えたのです。
偉い!よくやった!
と。
『退屈』『虚無』『無価値感』ってめっちゃネガティブワードに感じません?
怖くないですか?
私は怖かった。
でも飛び込んでみて味わってみると(飛び込み方はかなり中途半端ですが…)、そこにはなんともいえない世界が在ったのです。
いつでもその世界に居続けていたいのですが、いかんせん『個』という幻想にどっぷりな私はそこに居続けることはできません。
すぐに「私はさぁ~」と『個』である「自分語り」を始めようとしてしまうのです。
あーあ。
どこまでいっても私は愚かだなぁ。
『愚かな個である私』と『退屈に溶け込む私』。
これを私は行ったり来たりしながら生きている。
そんな風に感じるのです。
うわ!
ここまで書いてて思ったけど、私、めっちゃめんどくせー!笑
まぁいっか。
生まれてから今まで、めんどくさくなかったことんなんて一度もなかったもんな。
てことで、私は今日もあーだこーだ金にもならないことを考えながら生きてます。
急にやる気になってみたり、相変わらずぐだぐだしたり、偉そうなことを言ってみたり、そして突然退屈に溶け込んでみたりしながら。
今日も良き日だな。
グダグダした文章を最後まで読んでくれてありがとう。
ではまた。
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