そらさんの夏休みが終わってしまった。
今年の夏休みは本当に楽しくて(私がね。)、終わってしまうのが寂しくて仕方がなかった。
お友達も一緒にキャンプに3回も行けたし、そらさんと2人でプールにも行ったし、家族3人でお祭りや綺麗な海にも行かれたんだ。
キャンプの朝。亮一さんが大人気の図。
「そらちゃん…学校が始まるとき、もしかしたら泣いちゃうかもなぁ…」と上目遣いで言っていたそらさんは、昨日学校についた途端大興奮で友達とワーワー楽しそうにどこかへ行ってしまった。
そんなそらさんを見て寂しい気持ちもあったけれど、亮一さんの「いいことだよ。勝手に楽しんでくれたらいいね。」という言葉にグッときて、ほんとにそうだなぁと思った。
『勝手に楽しんでくれたらいいね』って、なんて素敵な言葉なんだろう。
それは『あなたの人生はあなたのものなのだから、勝手に楽しんでほしい』という意味だと感じて、一人胸の中で「おぉ…」と感動してしまった。
その言葉を口にできる亮一さんを「ふふふ。やっぱり好き。」と思ってしまう私は相変わらずの嫁バカだ。
そらさんの行っている南アルプス子どもの村学校には宿題というものがない。
テストもない。
なんなら成績表すらない。(それっぽいものはあるんだけどね。)
なので私は『我が子の夏休みの宿題問題』に遭遇したことがない。
『日々の宿題やらせるかやらせないか問題』にも遭遇したことがない。
これは私にとってはとてもラッキーなことで、私はきっと「宿題やりなさーい!」なんてことが言えないヤツだから大変助かっている。
そらさんの夏休み中、近所の仲良しの子たちとその子たちのパパさんママさんたちとバーベキューをやる機会があった。
その近所の仲良しの子たちはみんな、すぐ近くの公立の小学校に行っている。
当然夏休みの宿題が出ているので、私はママさんたちに宿題事情を聞いてみた。
「ねー、夏休みの宿題ってちゃんとやってるの?どんな宿題が出るの?たくさんあるの?」
小学校2年生の宿題がどんなもんなのか、まるで見当がつかない私はここぞとばかりに質問をする。
「もうほとんど終わってるよー。あとは研究だけだなー。」
「あー家も家もー!自由研究どうしよう。」
「家はあとドリルがほんの少しだけだよね?自由研究は『スライム』を作ったよ。材料揃えてさあ。YOUTUBEで作り方観てさー。」
「もー毎年自由研究困らない?もう適当だよー。」
「親の負担半端ないよねー。」
「毎日日記とか書かせるの大変だよー。」
「あーあとさー…」
私が一言話を振っただけで宿題の話が出てくる出てくる…
特に私が疑問に感じたのは『自由研究』について。
よーく話を聞いていると『夏休みの自由研究の本』というのがあるらしく、『自由研究のネタ』や『やり方』なんかが書いてあるそうで。
「もーその本の通りにやって提出するだけだよー。しかも去年はパパがほとんど仕上げたしね。今年もその本から選んで適当にやるわー。」
「あー家もそうしよう。ていうか早く決めないと材料そろえられないじゃん!」
2人のママさんが焦った様子でそんな話を繰り広げる。
私はその話しを聞きながら、首をぐにゅりとひねっていた。
…それ…
ぜんぜん自由研究ちゃうやんっ!!
私は心の中で「自由って?!!自由っていったい何?!!研究ってそういうもんなのぉぉぉぉーー?!!『自由』な『研究』っていったいなんなんだぁぁぁぁーーー!!」
と静かに叫んでおりました。(←相変わらず暑苦しい。)
「あのさ…」
私の心の叫びを口にすることははばかれる雰囲気だったので、こんな質問をなげてみた。
「…そのー…自由研究ってやっぱりそうやって親が決めないと進まないものなの…かな?親の負担でかくない?それって何年生くらいまで親が率先して提案していくものなの?」
もっと疑問に思っていることはたくさんあるのだけれど、私ができる質問はこれが限界だ。
さて、ママさんたちはどう答えるだろう。
「えー、だってさぁ2年生じゃまだ無理だよー。自分でなんて決められないでしょー。まだ来年…うーん…4年生くらいまで無理じゃない?もうこの自由研究が一番いやっ!!」
「そうだよねー!自分じゃまだ決められないよねぇ。ほんとめんどくさいっ!!」
うむむむ…
うーむ…
子ども夏休みの宿題は親への負担がほんとにでかいのだな…
なんだか色々考えさせられたよ。
私は早く夏休みの宿題なんてなくなってしまえばいいのに!と思っているのだけれど、(宿題なんてなくなったらいいのに!と思っている。)
なくしたらなくしたで不安に感じる親御さんもいるのかなぁ。
『夏休み』なのに宿題があったら休めないじゃんねぇ。
というか、宿題なんてなくしてめいっぱい遊べばいいのになぁ。
少なくともちっとも自由じゃない、親がワーワー言ってるだけ(のように見える)『自由研究』なんてまるで意味がない気がするのだけれど。
そんな出来事があり、私は『子どもの宿題問題』についてけっこう考えていた。
もしそらさんに宿題があったら私はどうしていたかなぁと。
そんな話を亮一さんとあーだこーだ話したんだけれど、亮一さんの話しの締めくくりがやっぱり素敵すぎたのでここに書いておこう。
「もし宿題があったら、きっとそらの反応や周りの反応をみていろんなことを考えるんだろうけどさ…
結局のところ宿題をやろうがやるまいが、どっちにしたって全く大したことじゃないっていうことだけはちゃんとベースに持っておきたいよね。」
うひょぉぉお!
ナイスっ!!
生後7ヶ月の時に表紙になった『ひよこクラブ』を持たされて自慢のために私に無理やり写真を撮られるそらさん。この子ね!『ひよこクラブ』の表紙になったのよっ!!
2000人くらいの中から選ばれたんだって!!すごくないですかっ?!!(←自慢がうるさい。)
そらさんの新学期の準備をしているときに、学校が刊行している『子どもの村通信』という新聞?のようなものが出てきて改めて目を通してみた。
子どもの村学校を創った堀さんが書いた記事に目がとまる。
そこにはこんなことが書いてあった。
『叱らぬ教育(あえて今一度)』
問題は、叱ることが良いか悪いかではない。
叱らずにいられる人と、叱らずにいられぬ人との相違である。
私はこの言葉を見て「おぉ…」と声をもらした。
子どもの村学校は『世界一自由な学校』と呼ばれたサマーヒルスクールの創始者であるニイル̪氏の『自由教育』の思想に基づいて創られている(らしいです。よく知らないのですけど…)。
堀さんはニイル氏の言葉を引用しながらこんなことを綴っていた。
子どもの悪いところばかり目につくのはなぜだろう。この疑問を解く鍵はニイルのことばに見つかる。
「困った子というのは、実は不幸な子である。彼は内心で自分自身とたたかっている。その結果として外界とたたかう。」
つまり無意識の深層で、本来もっている生命力と、生後に外界から与えられて内面化した超自我と葛藤している。
こういう子は、不安、緊張、自己否定感に悩んでいる。不幸なのだ。
そしてニイルの言葉は次のように続く。
「困った大人も同じ船に乗っている。」
『子どもの教育』という言葉をよく聞くけれど、子どもを通じて教育しなおされるべきはきっと『大人』のほうなんだとよく思う。
子どもの存在を通じて、いつの間にか縮こまらせてしまっていた『生命力』をもう一度放つべきは私たちのほうなんだと。
叱るというのは、いかに弁明しようとも相手を否定する行為だ。
しかも「大人は道徳的に正しい」という前提に立っている。
倫理規範の代理人を自任している。
しかしニイルのように子どもの自己決定の力を信じる人は、子ども自身による問題の認識と解決を大事にする。
もちろん子どもの困った行為に言及することはある。
しかし道徳の代弁者として叱るのではない。
「それは困る」や「ほかの子に迷惑がかかる」と気づいてもらう言い方である。
新学期に「学校に行きたくない」と思っている子がたくさんいるんだという話を聞いた。
この時期に子どもの自殺者が増えると。
子どもの宿題に口を出したくなるのはなぜだろう。
叱らずにいられないのはなぜだろう。
自分の考えを言わずに「それは悪いことだ!」と世間一般論で怒ってしまうのはなぜだろう。
これは大人がじっくり考えたほうがいいことだよなぁと思うのです。
叱らずにいられる人は幸福である。 byニイル
幸福で在りたいなぁ。
ではまた。
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