最近読んだこの本がとても素晴らしくて、読みながら何度も「うおー!」と言っていました。
今日は私の頭に思い浮かぶ方数人にむかって発信していきます。
あなたよ。あなた。それは私のことでもあるのだけれどね。
いい?よく読んでね。
著者の安冨歩(やすとみあゆむ)さんは東大の教授をされている超エリートの方。
女性装をする東大教授と言えばわかる方もいるのかな。
わからない方がいたらこのインタビューを読んでみてください。↓↓↓
安冨先生はこの本のはじめにこんなことを書いています。
生きるにはどうしたらいいのか。そればっかりは、誰も教えてくれませんでした。
私は既に40代も後半になりますが、思い返せば親も先生も先輩も、誰も彼も、いろいろなことを教えてくれましたが、そのほとんどは、ただの押し付けでした。
私が必要としている生きる技法ばかりは、誰も教えてくれなかったのです。
私も同じことを思っていたので「そうそう!」と最初から深く頷きました。
『ただの押し付けだった』ということに気付くのにどれだけの歳月を有したか。
(それも大切な時間だったのだけれどね。)
安冨先生はこのあと、こんな風に優しく言葉を紡ぎます。
ここ数年にわたって私は、この問題についてずっと考えてきました。
そしてようやく、生きるための技法が、少しずつわかってきたように思えます。
考えてみればそれは、簡単なことだったのです。
~中略~
ここに書かれていることは、みなさんの人生にお役に立つものと信じます。
とはいえ、これが正しいかどうか、私には確信がもてません。
どうぞここに書かれていることを鵜呑みになさらないでください。
~中略~
できれば、どこが良くてどこがダメなのか、私に教えていただければと思います。私自身、生きる技法を学び始めたばかりであり、みなさまに教えるような立場にはないからです。
安冨先生のこのはじめの文章にやられました。
「生きる技法を学んでいる仲間だよね。ね!」と言われたような気がしたからです。
けっして上から目線じゃなく「私が知ったことは今のところこれだけど、他にもあったら教えてね。仲間じゃない!」と言ってくれているような気がしたからです。
さすがです。
この本の中で一番「おほーー!」と感じ、そして「これは謝罪をしなければ!!」と思ったのは第3章の『愛について』。
『自愛』と『自己愛』について詳しく書かれているところです。
安冨先生はとても優しく、そしてわかりやすく言葉を綴ります。
『愛は自愛から発し、執着は自己愛から生じる』
「自愛」①自らその身を大切にすること。
「自己愛」⇒ナルシシズムに同じ。
「ナルシシズム」①自己を愛し、自己を性的対象とすること。②転じて、自己陶酔。うぬぼれ。
(広辞苑より)
自己陶酔やうぬぼれによって何かをすると、必ずやひどい目にあいます。
うぬぼれていると、自分の力不足を棚に上げて、誰かのせいにします。
~中略~
これに対して自愛とは自分自身としてそのまま受け入れていることです。
人間はほかの生命体と同じく、自分自身を維持しようという根本的な欲求を持っています。
その欲求を認め、それに従うことが自愛です。
そうしてはじめて「自らその身を大切にする」ことができます。
自愛とは自分自身を丸ごと受け入れ、大切にすること。
それにたいして自己愛は自己嫌悪から生じると安冨先生は言っています。
では『自己嫌悪』とは何か。
自己嫌悪とは自分のあるべき姿を思い描き、自分がそれとズレていることに嫌悪感や罪悪感を抱くことです。
↑これ、すっごく納得したんです。
「自分のあるべき姿」って「今の自分とは違う姿」ってことですよね。
「いい母親」「いい奥さん」「スタイルのいい私」「明晰な私」「いつまでも若くて綺麗な私」「お金をたくさん持っている私」「ハイスペックな旦那を持つ私」「ちゃんとした私」etc…
こんなことを「自分のあるべき姿」としていませんか?
そして「今のそのままの私」との差に嫌悪感を抱く。
それを隠そうと偽装し、自己愛になる。
つまり私の言葉でいうと「嘘つき」ってことです。
自己愛とは、自己嫌悪を埋め合わせるために偽装することである。
偽装とは、他人の目に映る自分の姿であり、他人の目で自分の偽装を見て良し悪しを判断することです。
自分の姿を鏡で見てうっとりするというのは「この姿なら他人が感心するだろう」と思って少し安心する、ということです。
これは維持するのがとても大変です。
とても辛い。
ちょっとでも「自分のあるべき姿」から外れたら大きな失敗ですから。
いつもびくびくし続けることになるよね。
つまり、自己愛はいつも不安と隣り合わせである。
私はずーーーっと自己嫌悪と罪悪感にまみれて生きていました。
だから摂食障害になったのだろうと思うし、なんとかそのままの自分を受け入れたくてもがいてきたように思います。
カッコつけて、人からどう見られるかばかり気にして 生きているのが嫌で嫌で仕方がなかった。
でもどうしたらそこから抜けられるかがわからなくて苦しみました。
このまま人目を気にして生きていたらずーーっと辛い毎日しか来ない!と絶望してからが私の始まりでした。
少しずつ「ホントの自分」をそのまま発表していく。
身にまとっていた鎧に気付き、そしてちょっとずつ脱いでいく。
「自分のこう!あるべき!姿」と「今実際の自分」の隔たりをなくしていく。
「自分のこう!あるべき!姿」がマボロシで、そんなものは何もなかったと気づいてぶっ壊していく。
それには勇気が必要だったし、決して楽ではありませんでした。
だって「嘘ついていました!ほんとにごめんなさい!」って謝らなければならないのだから。
謝ったからって受け入れられるとは限らない。非難や拒絶をされるかもしれないですから。
怖いよね。ほんとに怖い。
だから『絶望』しないとできないのです。
「偽装し続ける未来」に絶望しないとできないのです。
私は「嘘つき」をやめました。
嘘をつき続ける人生に絶望したからです。
でもまだ嘘をつこうとする自分に出会います。
まだまだ隠れていた巧みな嘘が未だに明らかになるときがある。
ほんとに地団太踏むほど嫌になるよ。
でも気づけて良かったぁとも思うし、「ふふふ。まったく嘘つきめ。」と可愛く思えたりもするようになりました。
自愛は自己嫌悪から離脱することで実現される。
自己嫌悪がいけないわけじゃない。
自己嫌悪がただ起こっていただけです。
自己嫌悪ををいけないことだとすると、自己嫌悪が増大する。
もうやめた!と思えばいい。それだけ。
悩むことを止める。
悩むんじゃなくて感じるんだよ。
自己分析や自己反省はいらないのです。
そんなのさんざんやったでしょ?(心当たりある方いるよね?ねぇ?)
人は「ホントの自分」をさらけ出すことを怖がる。
丸腰は怖いよね。
だって傷つくような気がするもんね。
そのままのホントの自分じゃダメだ!って押し付けられてきたんだからね。
親や大人や先生たちに。
でもそれを受け入れてしまったのは自分です。
受け入れざるを得なかった状況だったのも本当のこと。
自分で受け入れたんだし、当時は受け入れざるをえなかったんだとしたら?
だとしたらぁ?
「もうやーめた!」と自分で決められるんだよね。
(丸腰で生きても怖いけど傷つかないよ。だって傷つくか傷つかないかは自分で決められるんだから。)
私は毎日なるべく「ホントの自分」で生きていようとしています。
私はなるべく「丸腰」でいこうと気を付けています。
ビビりで臆病な私は気を付けていないとすぐに偽装するからね。
無意識で偽装するなんて絶対いや。
あとで体調悪くなるだけってことをもう知ってしまったからね。
で、どうする?
「偽装し続ける未来」を生きる?
それとも「ホントのそのままの嘘偽りない未来」を生きる?
選べるよ。
選べるんですよ。
さて、どうする?
あ!
そうそう謝罪しなきゃ!
私はずっと『自愛』のことを『自己愛』と言っていました。
言葉が違ったんです。
内容は『自愛』について話していたのに言葉を間違っていたんです。
この本で知りました。
「大切なのは『自己愛』なんだよ!」と声高に言ってしまっていたことがあったんです。恥ずかしい…。
MさんAさんごめんなさい。
私が言っていたことは「自愛」についてです。
ここで謝らせてくださいね。
無知で無学な私も日々学んでおります。
『生きる技法』めちゃくちゃ良著です。
とても優しくわかりやすいです。
手元に置いておいた方がいい一冊だと私は思います。
まだ読んでいない方はぜひ。
最後まで読んでくれてありがとう。
ではまた。
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