私は毎日1人の時間を存分に体験しています。
亮一さんは元気にインドのコルカタを体験しているようです。
毎日ビデオ通話やLINEでのやり取りをしているので、なんだかインドにいるなんて嘘みたいに感じるんだ。
ふと「今の時代はすごいなぁ!」なんてめちゃくちゃ年寄りみたいな言葉が出てきてしまうのだけれど、よくよく考えたら私は今44歳で、れっきとした『おばさん』の年齢なんだと再確認したりする。
(私はいつまでたっても自分のことを若造でただの子供だと思っているので。)
金曜日の夜にそらさん(娘8歳。平日は寮生活のかわいこちゃん。)が帰って来たのだけれど、昨日の夕方から私の実家に1人でお泊りに行ってしまったので結局昨日も私は1人の夜を過ごすことになった。
そらさんは「お泊りに行くならママは来ないでほしい。でもママが淋しいなら一緒に来てもいいんだよ。」と私に言った。
「ママが淋しいなら一緒に来てもいいんだよ。」って。おい。
挙句の果てには「ママ、1人で大丈夫?ほんとに来てもいいんだよ。」と、頭をなでなでしながら言いやがる始末だ。
おい。
私はそらさんに向かってこう答えた。
「いいよ!ママは1人で泣きながら過ごすからぁー( ノД`)シクシク…おーいおいおいおい!おーいいおいおいおいおいーー!!」
大げさな泣きマネをしながら。
ほんとは全然淋しくない。
なんならちょっと気楽に感じている。
「ママ。一緒に来たくなったらちゃんと言ってよ。我慢しなくていいんだよ。」
そらさんは私をどこまでも気遣う。
そらさんは全く淋しくないんだって。
あはは…
平日はずっと離れて暮らしていて、週末も離れてお泊り。
それなのに全く淋しくなさそうな我が子。
それどころか私が淋しがっていないか本気で心配する我が子。
これ、読んでてどう感じますか?
どうですか?
感じてみました?
私はこう感じています。
よかったなぁ。
そりゃあちょっとだけ淋しさはあるけれど、そらさんがこう在ってくれてよかったなぁ。
です。
離れていても大丈夫。
親がそばにいなくても大丈夫。
そんな感じなのでしょう。
ちょっと前にそらさんがこんなことを言っていました。
「助けて!っていえばいろんな人が助けてくれるよ。みんな優しいよ。そらちゃん自分でちゃんと言えるもん。だからパパとママが傍にいない時でもだいじょうぶなんだよ。そりゃ淋しい時もいっぱいあるけどね。でもだいじょうぶなんだよ。」
私はそらさんのその言葉を聞いて、この子はほんとにすごいなぁと思ったんだ。
ますますこの子を信頼していかなきゃなぁと自戒の念にかられたよね。
(すぐ過剰に心配しちゃったりするからね。とほほ。)
話しは変わって。
今朝私は自分のためだけにゴハンを作りました。↓
間引き大根を買っておいたので(90円くらいだったかな)、葉っぱを丁寧に炒めて小さな大根のほうは浅漬けに。
昆布と鰹節で出汁をとったなめこのお味噌汁には最後に海苔をかけて。
お茶は東城百合子先生のところで買った『山の晩茶』。(このお茶めちゃくちゃ美味いの!)
私はこの食事をめちゃくちゃ丁寧に味わった。
舌に感じる“これ”。
口の中で感じる“これ”。
脳内に響く咀嚼の音。
『美味しい』という単純な単語で片づけてしまいそうな感想を無理やり引っ込めて、
「『美味しい』なんていうもんか。」とムキになってみたりして。
大根の葉っぱの炒め物の味はどんなだろう。
『大根の葉っぱの炒め物』だなんて思わないで食べてみよう。
なめこのお味噌汁ってどんな味だろう。
『なめこのお味噌汁』だなんて思わないで食べてみよう。
舌に感じる“これ”を全身で味わう。
「あーこれを“苦い”と名付けたのかもしれない。」
「あーこれを“しょっぱい”と名付けたのかもしれない。」
「あーこれを“甘い”と名付けたのかもしれない。」
そんなことを感じながら食べる。
私はよく『美味しい』ってなんだろう?と考えるのだけれど、本気で美味しいものって『あーー!美味しい!』ってすぐ反応するんだよね。
身体がね。
そして全身の満足感が得られる。
コンビニのものを食べることもたまにはあるのだけれど、その時は「あーうん。まぁ…ねぇ…」という反応だ。
そして不思議と満たされない。
私はいつも「プラッチックを食べているみたいだなぁ」と感じる。
(まぁでも食べるときは食べるけどね。)
これを読んでくれている人にはぜひ一度試してみてもらいたいのだけれど、自分がどれだけ『口だけ』で食べているかを知って欲しいなぁと思う。
自分がどれだけ『腹だけパンパンにしたい』で食べているかを知って欲しいなぁと思う。
人間の感覚ってほんとにすごくてさ、『味覚』って“口だけ”の問題じゃないんだよ。
『味覚』って全身で感じる感覚なんだよね。
で、結局のところ、私は私のためだけに作ったゴハンを味わってこんな感想を持ちました。
「あー美味しかった!」
あはは。
前に亮一さんが言っていた言葉をよく思い出す。
「俺はなかなか“竹”を観ることができないんだよ。」という言葉。
にわーし(庭師)のお仕事から帰って来た亮一さんとお話ししていて出てきた言葉だ。
その日は竹をたくさん切ったんだと言っていて、2人で『竹』のお話をしていた。
亮一さんは少しだけ肩を落としてこう言いました。
「今日は竹をたくさん見たんだけどさぁ。俺はなかなか“ちゃんと”『竹』を『観る』ことができないんだなぁと思ったんだよ。」
私はこの言葉がわかりすぎるくらいわかる。
『竹』を見るとき、どれだけ自分の中にある『竹』の概念なしに観られるか。
いつのまにか「竹とはこんな感じ」という思い込みで見ているのが私たちだ。
『竹は緑だ』と思いませんか?
そこをよく観るように意識化するんです。
「これはなんだろう?」
「ほんとに竹は緑か?」
「緑って何色だ?」
と。
難しい?
難しいよね。うん。
これをやるとね、私たちはどれだけ『思い込み』で生きているか?がわかるんだ。
『美味しい』ってどういうことだ?
『竹』は緑か?
『緑』ってどんな色だ?
言葉の前、名前以前、そこを感じてみる。
ぜひやってみて。
面白いから。
そこにはすんごく大切な“気づき”が隠れているから。
さて、そろそろそらさんを迎えに行ってこようかな。
「まだ帰りたくなーい!」とか言われんだろうなぁ。
とほほ。
最後まで読んでくれてありがとう。
ではまた。
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