昨日、久しぶりに亮一さん(←私の最愛の夫)がブログをアップした。
もうその文章が素晴しすぎたのでシェア。
(今日は亮一さんのお誕生日。なので、尚更褒めまくる内容ですから。よろしくです!笑)
もうね、タイトルから素晴らしすぎてのけ反った。
ここで亮一さんはこんなことを書いている。
その時に感じた事がとっても大切な感じがする何かを孕んでいた様な気がしました。
それはボタン付けを習っている時の僕の視線です。
その視線は例えるなら、『ストン、と素直に正座をしている視線』と言う感じでしょうか。
『ストン、と素直に正座をしている視線』
くぅ~!なんという表現でしょうか!
これ書けないわぁ~。
この後、亮一さんは『観念』について書いたりしてます。
その『観念』の下。下には在るのです。
ここまで生きてきた間に当たり前のように身に着けてきた観念が沢山あります。
ただ、その観念の下には曇りのない、曇ることが不可能な、歳を決してとることがあり得ない視線はいつだって存在していたのです。
歳を決してとることがあり得ない視線。
無邪気で素直でオープンな視線。
気持ち悪いプライドなんてくっついていない視線。
それはいつだってそこに存在していたと気づく時がある。
その視線を感じたい。
『生』を感じたい。
そう思っている亮一さんは、インドに行こうと思っています。
そこにはこんな思いがあると言う。
見ず知らずの国で、ただ歩き、食べ、聞き、進み、疲れ、寝て、又進む。この何ともない行動がとっても生き生きとしていて、そこにはあの視線があったような気がするのです。
ただ、この視線は晩御飯の後のボタン付け、朝珈琲をドリップする時、このパソコンのキーを打つ手の感触、今この朝に聞こえている鳥の泣き声、それらの感触といつでも寄り添うように存在しているのです。
その視線、『生』を感じること、は、なにもインドに行かなくてもいつもそこに在る。
全てに寄り添うように。
それを重々承知の上で、亮一さんはインドに行こうと思っている。
でも行こうと思っています。
「きっと何か答えが見つかる」
なんて思いませんし、そもそも答えを見つけるのが人生ではないのでしょう。
んふふ。これ↑素晴しい!
「きっと答えが見つかる」なんて思いませんし…
んふふ。
“旅”は“感じる”ために行く。
自分を。生を。視線を。
探すものなんてないし、答えなんて見つけるもんじゃない。
だって、いつもそこに在るんだから。
でも、もっとリアルに、もっと鮮烈に、自分の生を全身で感じたいと静かに思っている亮一さんがいる。
亮一さんは熱くないんです。
暑っ苦しくないんです
いつも静かにジッと観察しています。
いつも静かに感じています。
でもその静かさの中には大きな“何か”がいつも在るんです。
ボタン付けを無事に終了させるという事だけが成功なのではなく、ボタン付けを味わえる事自体に成功はあると思うのです。
最高!!
そんな貴方と一緒に暮らせることを誇りに思います。
お誕生日おめでとう。
妻という名前を頂いてる ゆっきぃより
一年位前の鳥取砂丘での亮一さんとそらさん。
後ろ姿見るの、好きです。