亮一さんはずいぶん前から「インドに行きたい」と言っている。
去年は「どうしようどうしよう。」「怖いよー。怖いよー。」と何日も何日も悶えながら、迷いながら、アジア一人旅へと出かけて行った。
期間も決めず、目的もない、宿も取らず、ルートも決めない、陸路で移動する一人旅。
結局4週間の間、シンガポール、マレーシア、タイ、カンボジア、ラオスを巡って帰ってきた。
その旅から帰ってきた亮一さんは、行く前とは確実に“何か”が変わっていた。
顔つきも雰囲気も“何か”が違う。
逞しい?そんな簡単な言葉じゃ言い表したくないような変化。
亮一さんはよくこんなことを言う。
「日本は綺麗すぎるんだよなぁ。」
「日本は予定調和すぎて退屈なんだよなぁ。」
うん。
わかる。
「でもさ、同時に便利で綺麗でゴハンも美味しくて…良い国なんだけどなぁ…。」
と付け足す。
うん。
これもわかる。
私は今、自分の過去の出来事をなるべく詳細に書こうと奮闘している。
別にお金にもならないし、人からみたら「なにやってんの?意味あんの?そんなことまで開示しちゃって。」なことかも知れない。
でも「書きたい」のだ。
書かなきゃいいのに、言わなきゃいいのに、な事をたくさんやってきた私。
書かなきゃ、言わなきゃ、誰も知らないこと。
でも、それをあえて書き綴りたいのです。
「インドかぁ~…。怖いなぁー。でも、行きたいし、今行っとかなきゃ!な気がするんだよー。」
亮一さんはずっとこんな思いがどこかにある。
そして、きっと今年中には行くんじゃないかと思う。
インドへ。
「ここまで書いちゃっていいのかなぁ~…。でも書きたいんだよなぁ~…。
書かなきゃ!な気がするんだよなぁ…。」
私の日々の思い。
どうして自叙伝を書いてるのかさえ分からなくなる時がいっぱいあるけど、
でも、心が躍るんです。
インドへなんか行かなくてもいい。
自分の過去の事なんかさらさなくたっていい。
そんなことをしないで真面目に一生懸命働いていれば、いくばくかのお金が手に入り、
安定した(ように見える)毎日がおくれる。(ような気がする。)
でも…
そこに“生”を感じられる“何か”はあるんだろうか?
「生きてる!」と感じられる時。
そこには“恐怖”が必ずある。(と思う。)
じゃあ“生(せい)”ってなんだろう?
亮一さん推薦の名著。
この本にこう書いてある。
「生きている」ということは、体の中で合成と分解が絶え間なくグルグル回っているということなんです。
その流れこそが「生きている」ということ。
その流れを止めないために私たちは食べ物を食べ続けなければいけない。
入っていって抜け出ていくという流れしかないわけです。
この本の著者?対談者?の福岡さんは、20世紀最大の科学者であろうユダヤ人のシェーンハイマーさんの実験を元にこう書いています。
このシェーンハイマーさんはこう言っていたそうです。
「生命は機械なんかじゃないよ。生命は流れだよ。」
生命とは、“生”とは、「流れ」。
留まるものは何もなく、持てる物は何もない。
貯めこもうとすると病気になるし、安定を求めすぎると辛くなるだけだ。
(安定している「ように」見えるだけで、全くの「安定」なんてないからね。)
“生”を感じられる時、それは無防備な時なんじゃないかと思う。
「もうどうにでもなれ!えいっ!」の瞬間。
バッと目の前にいきなり現れた絶景を見た時。
誰も頼れるひとがいない、誰も知り合いがいない土地に身を置いたときに発動する“何か”を感じた時。
流れに身を任せる。
無防備。
これはすごい恐怖だ。
自分でコントロールしていると“思い込んでいる”「思考」が恐怖を訴える。
でも、その恐怖を味方につけるとそこには“生”が在る。
安定を求める思考が湧くときも多々あるし、恐怖にやられそうになるときもたくさんある。
でも、それこそが“幻想”であり、“思い込み”であることに気付く。
“観念”だ。
そこに気付いたら壊す。
ぶっ壊す。
そして流すのです。
気付いてぶっ壊して流す。
また気付いてぶっ壊してぶっ壊して流す。
その繰り返しを「怖い怖い」と言いながらやっている。
そんな毎日です。
今日も藤山家の3人はのんびりダラダラと…
“生きて”います。