車の運転を再開してかれこれ1年が経とうとしている。
運転免許を取得したのは18歳の時。
しばらくは運転をしていたけど、21歳のころ事故ってやめた。
そこからほぼ運転せず、20年の歳月がながれる。
私は運転が下手だ!と思い込んでいた。というか、母親から「ゆきえの運転は怖い」と言われ、兄からは「ゆきえは運転のセンスがない!」と言われ、そう信じ込んだ。
「私は運転が下手でセンスがないのだ。」と。
藤山家は山の上にある。
家の前はかなりせまい道がつづく。(かなりでもないか?)
運転のセンスがない私がこんな山の上の道のせまいところで運転をし始めるわけがなかった。
去年の3月、亮一さんは「多分3週間くらい。もしくはもっと長くかも。」みたいな曖昧な予定のアジア一人旅に行った。
「俺がいない間、車の運転できたほうがいいんじゃない?」
この亮一さんの一言で車の運転の練習をするようになった。
そしてあれからかれこれ1年。
私は割と普通に運転をしている。
センスがない。下手。
これは多分事実な気がする。
でも、割と普通に運転をしているのだ。
でもね。
運転中にいつもこんな声が聞こえる。
「え?こういう時どうするのが正解?」
「え?ここは待つのが正解?」
「え?クラクション鳴らされた!私が間違ってたの?」
「正解はどれ?」
いつもいつもいつも“私ではない誰か”が正解を知っていると思っている。
お家に帰ると必ず亮一さんに質問をする。
「あのさ、これこれこーゆー時はどうするのが正解?」
「私、間違ってる?」
亮一さんはいろんな方向から答えてくれる。
すごく優しい。
で、必ずこの言葉がでてくる。
「でもさ、みんなわからずやってるんだよ。どれも正解なんかないんだよ。
で、どれも正解なんだよ。」
私は運転初心者みたいなもんだから、いつも勉強している気分だ。
運転している“他のみんな”が大先輩に見える。
“他のみんな”はめちゃくちゃ運転がうまい人ばかりにみえてしまう。
そんなことないのに。
関係ないけど家のかわいこちゃんたち♡
整体師になって、一番苦労したのが「型を崩す」ことだった。
リフレクソロジーの会社で教わった技術はきっちり“順番”が決まっていた。
その“順番”は絶対に崩してはいけないものだった。
どんな症状があろうと、どんな体調えあろうと、年齢がいくつであろうと、
その“順番”は絶対だった。
一つ一つの技術は素晴らしく、その技術を身に着けるために反復の練習は絶対に必要なことだと思う。
でも、ずーーーっとその順番はくずしてはいけないものだった。
整体のスクールに入り直したとき、またもや“順番”どおりの技術取得がはじまった。
技術は素晴らしい。
一つ一つの技術には絶対的な“深み”があることも知っている。
そして、スクールだから“時間数”が決まっている。
その中で教えるためには“順番”というものが必要になってくるのも仕方がないのだ。
スクールで教えてもらった“順番”で技術取得が無事終わり、インターン?期間も終わり、整体師としてデビューした。
周りを見回したら愕然とした。
みんな私とは違う“順番”で施術をしているのだ。
(当たり前なんですけどね。)
“順番”から早く解放されたかった私は歓喜した。
やった!私がやりたいように施術していいんだ!!
で?
で???
「どれが正解?」
みんなそれぞれが違うことをしている。
いろんな療法がある。
いろんなやり方がある。
もうそれはそれは無数だ。
え?
で?
「どれが正解なの?」
あんなに歓喜したはずなのに、私は“順番”を崩すのにとても苦労した。
『これが正解ですよ』と言ってくれていたものをぶち壊さなければいけないから。
もうそれが正解じゃないんじゃないか?と疑い始めちゃったから。
まずはぶち壊さなきゃいけない。
でも、ちがう「正解」を誰も言ってくれない。
施術の度にいちいち恐怖が湧きあがる。
毎日毎日少しずつ「ぶち壊して再構築する」を繰り返す。
その度に私は「これであってる?」「これって正解?」と誰かに聞きたくなる。
でも、誰も正解を知らないってことに気付く。
そらさんを生んで、“育児”と“家事”の両立?的なことが始まったとき、私はなんだか嬉しくて『ひよこくらぶ』を毎月のように買っていた。
活字も好きだし、知らないことを知るのも好きだから。
そこにはまるでお花畑のような華やかな育児生活が載っていた。
で?
現実はというと…
まるでお花畑ではないものだった。
社会から隔絶されたような孤独感、おっぱいがでない罪悪感、母乳とミルクの混合育児の配分の難しさ、毎日赤ちゃんとずっと一緒にいるもどかしさ。
『ひよこくらぶ』にはそんなこと書いてないよ。
書いてあったかもしれなけど、なんだかとってもポップに書いてあって頭に入ってこないんだよ。
で?
育児ってどれが正解?
育児と家事の両立ってだれが正解を知ってるの?
これであってる?
何時に洗濯するのが正解?
子どもを公園に連れていくのは何時ころが正解?
離乳食のあげかたは?
泣いちゃったらどうするのが正解?
誰も正解なんか知らないのに。
天太が生まれて、病院の先生が私にこう聞いた。
『天太くんにはどうしてあげたらいいんでしょうねぇ。
お母さんが一番よくご存じだと思うので。』
熱がでて、さてどうしたもんかという時にこう言われたのだ。
18トリソミーの子の育児の正解はお医者さんでもわからないんだ。
私は昨日とある講義?の4回目の回に出席した。
(迷いに迷っていたこれね。↓)
4回目は最終日。
その日は講義に参加する人ひとりひとりに3分間の時間が与えられ、
内容フリーのプレゼンをするという内容だった。
私は直前まで迷った。
行くか行かないか。
プレゼンをするのかしないのか。
肩書きも決めてない、キャッチコピーもない、名刺もつくれてない、
こんなに何にもできていない私が参加して、しかもプレゼンなんてしていいものか?と。
行くのが正解?
行かないのが正解?
プレゼンをするのが正解?
しないのが正解?
誰か教えて。
結局私は直前にやりたくなってプレゼンの内容を考え出した。
こうやってもいいのかな?
こんなこと言っちゃってもいいのかな?
これって正解?
またもや正解探しがはじまった。
どの場面でも『これが正解だよ!』なんて言ってくれる人がいないし、もし誰かに力強く言われたとしても素直に聞けないことを知ってるのに。
私は性懲りもなく「これで合ってる?」と誰かに聞きたくなる。
どれが正解かもわからないまま、私はプレゼンをした。
3分間という貴重な時間を頂いたのだ。
50人ほどの人の前で自分の話しをする、という貴重な体験をさせて頂いたのだ。
正解がわからないまま飛び込む。
“今”の私は「これが正解だ!」と思ったから。
結果はもうどうでもいい。
今は結果を考えるのはやめよう!と自分の中の正解を表現してみた。
気持ちよかった。
自分の魂からの声が表に出る快感。
聞いてくれてる人がいる感謝。
評価は今はどうでもいい。
私は私を話せているか?が大問題。
この3分。
私は私を正解だと思っていた。
いろんな方が声をかけてくれた。
「すごくよかったですよ!」
「もっとお話し聞きたいです!」
「ずっと聞いていたいと思っちゃった。」
講義会場には神様が山ほどいた。
正解は『自分の中にある』。
誰も貴女の正解を知らないんだ。
誰も言えないんだ。
だって、貴女の中にあるんだから。
誰かが言った「正解」に自分を合わせにいく必要なんかないんだ。
それをやればやるほど貴女は苦しくなるんだよ。
でも私は今日も性懲りもなくやるんだろうね。
「どれが正解?」
「誰か教えて!」
ってね。
だって、これが人間ですからね。笑
人生はコントだね。
深刻にならずに笑っちゃおう。
この滑稽な自分に!
貴女は、貴方は
全部大正解だよ!!
滑稽野郎 ゆっきぃより
セッション、ご希望があればやります!
夫婦セッションなんつーのもありです!
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