藤山家においでよ

横浜のパワースポットと化した藤山家。施術、お料理、お話し会などを通じて『幸せに生きる』を実験、研究しています。

自愛と自己愛のちがいって知ってる?私はちゃんとしらなかったのでここで謝ることにしました。

 

最近読んだこの本がとても素晴らしくて、読みながら何度も「うおー!」と言っていました。

今日は私の頭に思い浮かぶ方数人にむかって発信していきます。

あなたよ。あなた。それは私のことでもあるのだけれどね。

いい?よく読んでね。

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著者の安冨歩(やすとみあゆむ)さんは東大の教授をされている超エリートの方。

女性装をする東大教授と言えばわかる方もいるのかな。

わからない方がいたらこのインタビューを読んでみてください。↓↓↓

www.mugendai-web.jp

 

安冨先生はこの本のはじめにこんなことを書いています。

 

生きるにはどうしたらいいのか。そればっかりは、誰も教えてくれませんでした。

私は既に40代も後半になりますが、思い返せば親も先生も先輩も、誰も彼も、いろいろなことを教えてくれましたが、そのほとんどは、ただの押し付けでした。

私が必要としている生きる技法ばかりは、誰も教えてくれなかったのです。

 

 私も同じことを思っていたので「そうそう!」と最初から深く頷きました。

『ただの押し付けだった』ということに気付くのにどれだけの歳月を有したか。

(それも大切な時間だったのだけれどね。)

 

安冨先生はこのあと、こんな風に優しく言葉を紡ぎます。

 

ここ数年にわたって私は、この問題についてずっと考えてきました。

そしてようやく、生きるための技法が、少しずつわかってきたように思えます。

考えてみればそれは、簡単なことだったのです。

~中略~

ここに書かれていることは、みなさんの人生にお役に立つものと信じます。

とはいえ、これが正しいかどうか、私には確信がもてません。

どうぞここに書かれていることを鵜呑みになさらないでください。

~中略~

できれば、どこが良くてどこがダメなのか、私に教えていただければと思います。私自身、生きる技法を学び始めたばかりであり、みなさまに教えるような立場にはないからです。

 

安冨先生のこのはじめの文章にやられました。

「生きる技法を学んでいる仲間だよね。ね!」と言われたような気がしたからです。

けっして上から目線じゃなく「私が知ったことは今のところこれだけど、他にもあったら教えてね。仲間じゃない!」と言ってくれているような気がしたからです。

さすがです。

 

この本の中で一番「おほーー!」と感じ、そして「これは謝罪をしなければ!!」と思ったのは第3章の『愛について』。

『自愛』と『自己愛』について詳しく書かれているところです。

 

安冨先生はとても優しく、そしてわかりやすく言葉を綴ります。

 

『愛は自愛から発し、執着は自己愛から生じる』

 

「自愛」①自らその身を大切にすること。

「自己愛」⇒ナルシシズムに同じ。

ナルシシズム」①自己を愛し、自己を性的対象とすること。②転じて、自己陶酔。うぬぼれ。

広辞苑より)

 

自己陶酔やうぬぼれによって何かをすると、必ずやひどい目にあいます。

うぬぼれていると、自分の力不足を棚に上げて、誰かのせいにします。

~中略~

これに対して自愛とは自分自身としてそのまま受け入れていることです。

人間はほかの生命体と同じく、自分自身を維持しようという根本的な欲求を持っています。

その欲求を認め、それに従うことが自愛です。

そうしてはじめて「自らその身を大切にする」ことができます。

 

自愛とは自分自身を丸ごと受け入れ、大切にすること。

それにたいして自己愛は自己嫌悪から生じると安冨先生は言っています。

では『自己嫌悪』とは何か。

 

自己嫌悪とは自分のあるべき姿を思い描き、自分がそれとズレていることに嫌悪感や罪悪感を抱くことです。

 ↑これ、すっごく納得したんです。

「自分のあるべき姿」って「今の自分とは違う姿」ってことですよね。

「いい母親」「いい奥さん」「スタイルのいい私」「明晰な私」「いつまでも若くて綺麗な私」「お金をたくさん持っている私」「ハイスペックな旦那を持つ私」「ちゃんとした私」etc…

こんなことを「自分のあるべき姿」としていませんか?

そして「今のそのままの私」との差に嫌悪感を抱く。

それを隠そうと偽装し、自己愛になる。

つまり私の言葉でいうと「嘘つき」ってことです。

 

自己愛とは、自己嫌悪を埋め合わせるために偽装することである。

 

偽装とは、他人の目に映る自分の姿であり、他人の目で自分の偽装を見て良し悪しを判断することです。

自分の姿を鏡で見てうっとりするというのは「この姿なら他人が感心するだろう」と思って少し安心する、ということです。

 

これは維持するのがとても大変です。

とても辛い。

ちょっとでも「自分のあるべき姿」から外れたら大きな失敗ですから。

いつもびくびくし続けることになるよね。

 

つまり、自己愛はいつも不安と隣り合わせである。

 

私はずーーーっと自己嫌悪と罪悪感にまみれて生きていました。

だから摂食障害になったのだろうと思うし、なんとかそのままの自分を受け入れたくてもがいてきたように思います。

カッコつけて、人からどう見られるかばかり気にして 生きているのが嫌で嫌で仕方がなかった。

でもどうしたらそこから抜けられるかがわからなくて苦しみました。

このまま人目を気にして生きていたらずーーっと辛い毎日しか来ない!と絶望してからが私の始まりでした。

少しずつ「ホントの自分」をそのまま発表していく。

身にまとっていた鎧に気付き、そしてちょっとずつ脱いでいく。

「自分のこう!あるべき!姿」と「今実際の自分」の隔たりをなくしていく。

「自分のこう!あるべき!姿」がマボロシで、そんなものは何もなかったと気づいてぶっ壊していく。

それには勇気が必要だったし、決して楽ではありませんでした。

だって「嘘ついていました!ほんとにごめんなさい!」って謝らなければならないのだから。

謝ったからって受け入れられるとは限らない。非難や拒絶をされるかもしれないですから。

怖いよね。ほんとに怖い。

だから『絶望』しないとできないのです。

「偽装し続ける未来」に絶望しないとできないのです。

私は「嘘つき」をやめました。

嘘をつき続ける人生に絶望したからです。

でもまだ嘘をつこうとする自分に出会います。

まだまだ隠れていた巧みな嘘が未だに明らかになるときがある。

ほんとに地団太踏むほど嫌になるよ。

でも気づけて良かったぁとも思うし、「ふふふ。まったく嘘つきめ。」と可愛く思えたりもするようになりました。

 

自愛は自己嫌悪から離脱することで実現される。

 

自己嫌悪がいけないわけじゃない。

自己嫌悪がただ起こっていただけです。

自己嫌悪ををいけないことだとすると、自己嫌悪が増大する。

もうやめた!と思えばいい。それだけ。

悩むことを止める。

悩むんじゃなくて感じるんだよ。

自己分析や自己反省はいらないのです。

そんなのさんざんやったでしょ?(心当たりある方いるよね?ねぇ?)

 

人は「ホントの自分」をさらけ出すことを怖がる。

丸腰は怖いよね。

だって傷つくような気がするもんね。

そのままのホントの自分じゃダメだ!って押し付けられてきたんだからね。

親や大人や先生たちに。

でもそれを受け入れてしまったのは自分です。

受け入れざるを得なかった状況だったのも本当のこと。

自分で受け入れたんだし、当時は受け入れざるをえなかったんだとしたら?

だとしたらぁ?

「もうやーめた!」と自分で決められるんだよね。

(丸腰で生きても怖いけど傷つかないよ。だって傷つくか傷つかないかは自分で決められるんだから。)

 

私は毎日なるべく「ホントの自分」で生きていようとしています。

私はなるべく「丸腰」でいこうと気を付けています。

ビビりで臆病な私は気を付けていないとすぐに偽装するからね。

無意識で偽装するなんて絶対いや。

あとで体調悪くなるだけってことをもう知ってしまったからね。

 

で、どうする?

「偽装し続ける未来」を生きる?

それとも「ホントのそのままの嘘偽りない未来」を生きる?

選べるよ。

選べるんですよ。

さて、どうする?

 

あ!

そうそう謝罪しなきゃ!

 

私はずっと『自愛』のことを『自己愛』と言っていました。

言葉が違ったんです。

内容は『自愛』について話していたのに言葉を間違っていたんです。

この本で知りました。

「大切なのは『自己愛』なんだよ!」と声高に言ってしまっていたことがあったんです。恥ずかしい…。

MさんAさんごめんなさい。

私が言っていたことは「自愛」についてです。

ここで謝らせてくださいね。

無知で無学な私も日々学んでおります。

 

 

『生きる技法』めちゃくちゃ良著です。

とても優しくわかりやすいです。

手元に置いておいた方がいい一冊だと私は思います。

まだ読んでいない方はぜひ。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

 

 

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どうやら私は亮一さんがとても恋しいようです。

 

今、亮一さんはインドのハンピという町からバスでバンガロールに向かっているようです。

インドはとてつもなく広く、そしてとてつもなく不思議な国だということを亮一さんの旅を通じて感じています。

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象洗ってるよ!!河で象洗ってるんだよ!!

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こちらはミス・ハンピ。可愛すぎる。お洋服もカラフルで綺麗。

 

今、たった今、亮一さんから連絡が来ました。

無事にバンガロールに着いて、このまま他のバスに乗り継いでマドゥライという場所に移動するそうです。

バンガロールはすっとばすってさー。

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昨日のハンピのバスストップの場所だそうです。出発は23時。こんなとこにバスが来るなんて教えてもらわなければぜーーったいわからないよね!!

 

毎日LINEや電話で連絡を取り合っている私たち。

顔を携帯の画面越しにみることができるのはとても安心する。

声を聞けるのもとても嬉しい。

インドと横浜でやりとりをしている奇跡に「うわぁ!」って思ってみたりして。(←しかも無料って…)

 

でもね、電話を切るといないのです。

あたりまえなんだけど隣にいないのです。亮一さんが。

 

どんどん生命力を全開にして思う存分旅をしてきてほしい。

全身で楽しんできてほしい。

もーいいやーって思うまでやってほしい。

亮一さんが亮一さんで在る時間がたくさんあってほしい。

心からそう思う。

でもね、「早く帰ってくればいーのになー」と思っている私もいるのです。

 

昨日Facebookのコメント欄に亮一さんがこんなコメントを私宛に書きました。

 

たっぷり楽しんでいるよ。

 

でも、家に帰って皆でご飯食べたり、出掛けたりもだんだん恋しくなってきているんだわ(T_T)

 

このコメントを読んで私はとても嬉しくなりました。

「ふふふ」と笑ってしまうほど。

私はこのコメントをそらさん(娘8歳。激カワ。)に読んで聞かせました。

「パパ、恋しくなってるんだって!」って言いながら。

 

そらさんはお布団に寝っ転がりながらそれを聞いていて、そして口をとがらせてこう言いました。

 

「だったら早く帰ってくればいーじゃんねー!」

 

あはは。

その通り。

 

そしてこう続けました。

 

「そらちゃんはずっと早く帰って来ないかなぁって思ってるんだよ!もう!」

 

口をとがらせて拗ねたような口調で言うそらさん。

んもう。

 

私は「ほんとだよねー!」と言いながら、なんて幸せなんだろうと思ったんだ。

 

『早く帰ってくればいーのに!』と思える幸せ。

『早く帰ってきてほしいねぇ』と一緒に言える幸せ。

『早く帰ってきてほしいなぁ』と思える相手がいる幸せ。

そしてきっとその相手も『帰りたいなぁ』と思ってくれているだろう幸せ。

 

場所なんてどうでもいいんだろうな。

帰る場所は『その人がいる場所』なんだと思う。

今回は私とそらさんが亮一さんを『待っている場所』になっただけ。

次の機会は私が旅に出て、亮一さんとそらさんが『待っている場所』になるかもしれない。

帰る場所があるってすごい。

すごい安心感なんだろうなぁと思うのです。

私は今、亮一さんとそらさんの『帰る場所』『安心感そのもの』に自分が成れているような気がして嬉しくてならない。

ありがたいなー!と思うのです。(←気のせいだったらどうしよう。滑稽極まりないよね。笑)

だからこそ思うよ。

「早く帰ってくればいーのになー」と。

でも「存分に旅をしてきてほしい!」とも思うんだ。

 

亮一さんとそらさんのことを想うと胸がほわぁとなります。

のびのびと思う存分生きて欲しい!と心から思います。

そしてもし私が亮一さんとそらさんの『帰る場所』で『安心感そのもの』であるならば、こんなに幸せなことはないなぁと思うのです。

と同時に亮一さんとそらさんは私の『帰る場所』で『安心感そのもの』なのだよなぁとつくづく感じるのです。

 

きっとこれを『愛』と呼ぶのかもしれないな。

わからないけどね。

 

私は今大好きな人がたくさんいます。

ありがたいことに大好きな人たちがどんどん増えています。

私は大好きな人たちを思うと胸がほわぁとなります。

そして「思う存分その人で在ってほしい」という思いが以前よりもどんどん強まっているのを感じます。

そのために私に何ができるだろう?と真剣に考える時間が増えました。

自己犠牲ではなく、です。

『問題意識』ではなく、です。

 

まずは自分を楽しもう。

そして私ができることをしよう。

まずは私が幸せを感じよう。

そして私が話せることを話そう。

まずは私が私を感じよう。

そして話さなくていいことは話さないでいよう。

まずは私を労わろう。

そして人を包み込もう。

まずは自分を赦そう。

そして「まだ赦せない!」と言っている人を優しく見つめよう。

 

そんなことを思います。

 

こんなことを思えるようになったのは、こんなことを恥ずかしげもなく(いや、相当恥ずかしいんだけどね…)書けるようになったのは、亮一さんの存在があったからです。

 

『存在』が愛しい。

 

私の中に在る、こんな思いを開花させてくれたのは亮一さんです。

私は私の中に眠っていた『存在を愛しく感じる感覚』を思い出すことができました。

 

だから私は考えます。

今の私に何ができるだろう。

 

亮一さんが恋しすぎて、以前亮一さんが書いていたブログを読み返してみたんだ。

そうしたらやっぱり素晴らしくてさ。

だからぜひ読んでみて。

とても素晴らしいから。

 

ボタン付けの夜。↓↓↓

http://yamafuji70.hatenablog.com/entry/2018/05/10/%E3%83%9C%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%BB%98%E3%81%91%E3%81%AE%E5%A4%9C

 

本文より。↓↓↓

「きっと何か答えが見つかる」

なんて思いませんし、そもそも答えを見つけるのが人生ではないのでしょう。

 ボタン付けを無事に終了させるという事だけが成功なのではなく、ボタン付けを味わえる事自体に成功はあると思うのです。

 

最高。

これを言える人がこの世にいてくれるだけで最高だと思う。

 

インドを旅している亮一さんが恋しい。

私はそんな私を「いいヤツだな」と思うのです。

 

あーあー

早く帰って来ないかなー。笑

 

 

最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

 

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春菊の葉っぱと頭のおかしい私と素敵なお手紙。

 

11月があっという間に過ぎていく。

亮一さんがインドに旅立っていった日にそらさんとわんわん泣いたことがとても懐かしく思えてしまう。

「そういえばそんなこともあったなぁ…」と思っている自分が切ない。

現象はどんどんと過ぎ去っていってしまうのだなぁと実感させられるし、『掴めるものは何もない』ことを改めて感じるから。

 

だいぶ前に亮一さんがこんなようなことを言っていたのを思い出す。

 

『悩みすら持ち続けていることができないんだよ。俺は悩むことすらできないんだ。』

 

私は亮一さんのその言葉を聞いてまたもやゲラゲラ笑ったのだけれど、笑いながら「ほんとにそうよねぇ。」と言った。

 

私は私のことが好きだ。

いや、『好き』というよりは「しょーがねぇなぁ。どうせ離れることができないんだから付き合うしかないか。」とあきらめている感じだ。

でもいったんその目線で自分を見始めると「おぉ。割といいやつじゃん。」と好きになっていくのだ。

 

最近私は『春菊のサラダ』をよく作る。

このあいだも海外からお客さんが来てくれた時に春菊のサラダを作った。

(私に会いたい!とわざわざ会いに来てくれたのです!泣ける。)

 

春菊をよーく洗ってやわらかい葉っぱの部分だけを丁寧にちぎる。

そのちぎった葉っぱにごま油とお酢とお塩、海苔をふりかけてよく混ぜる。

たったこれだけのサラダだ。

でもたったこれだけのことでめちゃくちゃ美味しいものが出来上がる。

 

春菊の葉っぱをただひたすらちぎってボールに入れている時、ボールに入らずにぽろりと落ちた葉っぱが一枚あった。

私は葉っぱをちぎる手を止めて、そのぽろりと落ちた一枚にふと目を向けた。

そしてじーっとその葉っぱに目を向け続けた。

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↑これ。ぽろりと落ちた葉っぱ。

 

じーっとその葉っぱを見つめていた私の口からはこんな言葉が発せられた。

 

「…かわいいな…」

 

私はぽろりと落ちた葉っぱを「かわいい」と感じていて、思わず言葉を発していた。

そしてそんな自分に驚くのだ。

 

「えー。私、これをかわいいと思うんだー。へー。」

 

そんな感じ。

 

ぽろりと落ちたその葉っぱをとても愛しく感じるのはなぜだろう。

不思議だな。

私はその葉っぱが愛しすぎて思わず写真に撮った後、口に放り込んでしまった。

自分の中に入れたくなったのだ。

そしてそんな自分に「お前頭おかしいな。」とぼそりと言うのを忘れなかったよ。笑

 

そんな『頭のおかしい私』にわざわざ会いに来てくれた素敵な女性が、こんなに素晴らしいお手紙をくれた。

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海外に行って日本語にうえていた頃、ゆっきぃさんの『私のコト』シリーズに出会いました。

数日間、日夜問わず続けて読みふけっていました。

文章力はもちろん、自分の過去、現在をオープンに発信するお姿に勇気とたくましさを感じ、是非どんな方なのかお目にかかりたいと思うようになりました。実現してとっても嬉しいです!!

これから日本はどんどん寒くなると思います。気圧も低くなりますのでゆっきぃさんも、亮一さんもそらさんも、どうぞご自愛下さい。

ブログの更新も、no-teも実は楽しみにしています…

また、ゆっきぃさんのペースでゆっきぃさんのアンテナを私たちにも共有して頂けたら嬉しいです。ありがとうございます。

 

泣ける。

泣けますよ。

心からありがたい。

ありがとーーーー!!!

 

私は「どれだけ自分で自分に正直に在れるか」「どれだけまっさらな目でモノゴトを観られるか」を人生をかけて真剣にやっていて、それをどれだけ素直に自分のホントウの言葉で綴れるか、言えるか、を実験実戦しています。

よく私は私に「なんで?!なんでこんなことやってんの?!」と聞きたくなるほど大変な時もあるんです。

 

もっとうまくごまかして生きてもいいじゃん!

もっと器用に立ち回ろうぜぇ!そんなめんどくさいことしないでさ!

適当に話し合わせておけよぉ。みんなだいたいそうやって生きてんだからさぁ。

 

そんな言葉が頭をよぎるときがある。

でもね、残念なことにね、

できないんですよ。

私、できないんです。これしか。

 

最近読み返している『神との対話』にこんな言葉が出てきた。

 

自己探求と創造の旅に出ることで何が得られるのか?

どこにそんなことをする動機があるのか?

どんな理由でするのか?

その理由はばかばかしいほど簡単だ。

 

「ほかにはどうしようもないから」

 

 

 

私はこの部分を読んで声をあげて笑った。

「あはははは!その通りだな!」と。

 

『私の世界は永遠に私しか知ることができない』という紛れもない事実を肚から受け入れると、残念なことに全てのことがらを人のせいにはできなくなる。

だからなかなか人はそれを受け入れたがらない。

誰かのせいにしておきたいもんね。

誰かが正解を知っていると思っていたいもんね。

私もそんな時いっぱいあるもん。

 

でも『幸せ』はそこにはない。

残念なことに外側にはないのです。

うぅ…残念な事実…

(認めたくない時いっぱいあるよぉー)

 

私がこうやって文章を綴ることで誰かに勇気を与えられているなら、こんなに嬉しいことはないと思う。

私は今日も些細なことに気付いていたいし、それを拙い文章で綴りたい。

ほかにはどうしようもないからね。笑

 

幸せはゴロゴロその辺に転がっているよ。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

 

 

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「『動く』と動くんだねぇ。」と彼は言いました。

 

亮一さん(最愛の旦那さん。心から好き。)がインドに旅に出て2週間が経つ。

私は1人の時間を自然に楽しむことに慣れてきて、亮一さんは毎日刺激のシャワーを浴びまくって生きている。

 

私は私のハナクソみたいなプライドをどれだけ捨てられるか?をここ数年やってきたように思えるのだけれど(後付けだよ。気づいたらそんな感じのことをやっていた、みたいな感じね。)、ほんとにそれは『ハナクソ』だったと痛いほど感じるのです。

『ハナクソみたい』じゃなくて『ハナクソ』だったのよ。笑

 

そんなちっぽけな『ハナクソ』のお陰で、美しいものが目に入らない時間がどれだけ長かったか。

目の前に“美しいもの”や“素敵なもの”がひっそりと音もなく、でも確実に大きく存在していたのに。

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そんなちっぽけなハナクソなんてガンジス川に流してしまえ!と思う。けど怖いのよね。

 

 

『ハナクソ』を大事に大事にしていたのには訳がある。

『ハナクソ』を持っていない私なんて存在する理由がない!と思い込んでいるからだ。

思い込んでいる時には『ハナクソ』は大事な大事な『宝物』に観えるんだ。

これを手離したら死んでしまう!と思い込んでいるのです。

 

 

少し前に、摂食障害から抜け出せずにいる女性からこんな質問を受けました。

(自ら『抜け出さない』を選んでいるのかな。彼女は。)

 

摂食障害を克服した今、ゆっきぃさんが『得たもの』はもちろん知りたいのですが、逆に『無くしたもの』『失ったもの』も伺ってみたいです。

 

彼女は摂食障害というのは何かを守りたくてでてくるのかな?と思うことがあると綴っていた。

(物理的なものもそれ以外も。)

 

私は彼女の言葉を読んで「なるほどー」と思ったし、それ以降『無くしたもの』『失ったもの』についてぽつぽつと考えていた。

 

摂食障害を克服?して、私が『無くしたもの』『失ったもの』ってなんだと思いますか?

もうわかるか。

 

そう。

 

たくさんの『宝物だと思い込んでいたハナクソ』を失いました。

 

私は私が宝物だと思っていたもの、手離したら死んでしまう!と思い込んでいたものを無くしました。

 

私は『私』を形成していると思い込んでいた『プライド』や『自尊心』や『存在理由』を失いました。

「もうこんなのいらねぇー!」と、痛い痛いと言いながらちぎっては投げ捨てていったのです。

だってそんなのマヤカシですから。

でもね、痛いし怖いのよ。

マヤカシなのに痛いし怖い。

私は未だにその最中です。

 

どこまで無防備なまま立っていられるか。

どこまで裸のままで在れるか。

もちろん服を着たければ着ればいいし、こいつにはぜったい裸を見せてやんねぇ!と思う相手がいたらすぐにコートを羽織ればいい。(これは変態の姿だ!裸にコート。笑)

でもそれは自分で選びたい。

裸でいるのか服を着るのか。

 

私は私の『まやかしの宝物』をまだ見つけている最中で、それが『ハナクソ』だと気づくゲームの最中だ。

まずは気づかなきゃいけないからね。

見つけなきゃ捨てられないからね。

 

これにはとても勇気がいる。

自分が宝物だと信じていたものが『ハナクソ』だったと認めなきゃいけない勇気。

そして認めたらちぎって捨てなきゃいけない。

これはものすごく怖い。

私が『これが私だ』と心の底から信じていたものを手離さなければならないのだから。

私がいなくなってしまう!と恐怖にわななくのです。

でもそんなのはマヤカシだと自分に言い続けて、怖い怖いと言いながら投げ捨てる。

投げ捨てたきった『私』がどこにいるか知りたいから。

 

ちぎっては捨て、ちぎっては捨てを繰り返してきた私が言うよ。

 

大丈夫だよ。

 

そして

 

怖くないよ。

 

それから

 

ハナクソに気付いて捨てると見えていなかった美しくて素敵なものが観えるんだよ。

 

 

 

私は1人の時間を満喫しながらも、美しくて素敵なものに触れたくて動いています。

亮一さんもどういう心境かはわからないけれど動いています。

 

インドと日本間をLINEでやりとりしている最中、彼はこんなことを言いました。

 

「『動く』と動くんだねぇ。」

 

そうだね。

動くと動くんだよね。

 

今日も私は気づいてはおののき、そしてちぎっては投げ捨てる。

そして動くのです。

 

ハナクソに気付くの怖い?

だったら一緒に気付いて笑っちゃおうよ。

きっと楽しくなってくるよ。

そんなちっぽけなことに囚われて生きているなんてもったいない!!ってくらい美しくて素敵なものがたくさんあるんだから。

 

あなたはあなたが思い込んでいるような人ではないよ。

自分を限定しないでね。

一生『自分』なんて見つからないんだからさ。

 

 

最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

 

 

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どうやって生きていきたいですか?どう在りたいですか?私はそんな話がしたいのです。

 

亮一さんがインドでいろんな体験をしている。らしい。

今朝もビデオ通話で話しを聞いていたのだけれど、聞いているだけで「たまらん!!」と身悶える。

 

昨日亮一さんは今滞在しているコルカタの宿から少し離れた場所にある、カーリー寺院に行ったらしい。

私は『カーリー』という女神に今惹かれに惹かれているのでうらやましくて仕方がない。

カーリー女神は怖い。

怖すぎるのだ。↓↓

 

web.kyoto-inet.or.jp

 

その怖さがたまらない。

ゾクゾクするのだ。

 

そのカーリー寺院の真向かいが風俗街っていうところもものすごくゾクゾクする事実だ。

亮一さんは宿で同室になっている男性と一緒にその風俗街に行ってみたらしいのだけれど、これが凄まじかったと言っていた。

(女を買ったわけじゃないよ。風俗街に行ってみたってことよ。)

 

「もうね、今まで見たこともないような光景なんだよ。なんて言ったらいいかわからないくらい。ゆっきぃにも見せたいよ。もうね、すごいよ。現代にこんな光景があるんだ!っていうくらい。」

 

亮一さんは淡々とした口調でこう言った。

 

形容しがたい見た目の女性たち、道で寝そべるやせ細った乞食、汚い格好で座っている子ども、物乞い、そして普通に歩いている野犬とちょろちょろと歩き回るネズミ…

 

カリブの海賊のあの世界にぎゅうぎゅうにインド人を詰め込んだような場所だった、と亮一さんは説明した。

そして亮一さんが言ったことで興味深かったのはこんな言葉だ。

 

「町の入り口とか見るとさ、見るからに『危険な場所』なんだよ。

こんなとこ入ったら絶対ヤバいって!って思うような場所なの。きったねーし。これはあんな所に行ったら危ないことがあるに決まってるでしょ?!!みたいな所なんだよ。」

 

亮一さんがこう言ってるくらいなんだから、相当な場所なんだと想像する。

私は「うん!うんうん!!」と興奮しながら話しを聞く。

私の興奮をよそに亮一さんはこう続けた。

 

「でもさ…入って行ってみるとね、何にもないんだよ。何にも起こらないの。

どこにも危ないことがないんだよ。それがなんとも言えないというか…すごいんだよ。

何にもないんだよ。ほんとに。」

 

形容しがたい姿の女が(多分カラダを売っている女性だよね)ぼーっと座っている。

その周りをきったない子供が遊ぶ。

やせ細った乞食らしき人が倒れている。

物乞いがそこかしこにいる。

野犬がウロウロしていてネズミが普通にその辺にちょろちょろいる。

道を挟んだ目の前には大人気のカーリー寺院に人が押し寄せている。

(参拝するために行列ができるんだって)

 

混沌。

雑多。

猥雑。

 

そんな中に身を置いてみても『何も起こらない』ってところがすごい。

 

私は亮一さんの話しを聞いていて、インドという国の“寛容さ”を感じたのです。

『受け入れる』なんて言葉が重たいくらい、『受け入れる』よりももっとそれ以前の感じ。

“あるがままをそのままにしておく”大きさや凄みを感じたんだ。

 

「ゆっきぃにもぜひあれをみて欲しいと思ったよ。すごいよ。インド、すごい。」

 

亮一さんは淡々とした口調でこう言った。

「すごいんだよ!!!ほんと!すごいんだよ!!!」みたいに興奮していない。

どうやらジワジワと侵食しているんだろうな。

 

たまらんな。インド。

 

 

先日、そらさんが寮から帰宅してきてやっとそらさんといちゃいちゃできるぅー!と思っていたら、彼女は私の実家に泊まりに行ってしまった。

私の実家は母と兄家族が暮らしている。

母と私の兄と兄嫁と娘の美心(みこ)さん(8歳。そらさんほどじゃないけど可愛い)。

そらさんにとっては従妹に当たる美心さんとそらさんはとても仲が良い。

お誕生日も1か月違いで、生まれた時からしょっちゅう一緒にいる間柄だ。

 

私は土曜日のお昼頃にそらさんを車で送り、日曜日の夕方実家に迎えに行った。

 

私の家族はみんな仲が良い。

姉家族もずっと町田に住んでいて、すぐにみんなで集合する。

みんな町田界隈に住んでいてどこにも出ていこうとしないような家族だ。

(海外なんて行こうともしないんだよ。変なの。)

私の親や姉兄にとって、私はものすごく異端児で変人らしい。

ましてや結婚相手が亮一さんだ。

どうにも理解できない夫婦だそうで。

私は自分の家族のその閉塞的な部分と親密さがすごく窮屈で家出をした。(のだと気づいたのは最近だけれど。)

どうにも私のこの感じを伝えられなかったし、伝えたところで分かってくれるとも思っていなかったから。

過去の私は「私とはこういう人間なんだよーー!」と親姉兄に全力で見せるやり方が『家出』しかなかったのかもしれない。

お陰で「どうやらゆきえは私たちとは違う人種なのかもしれない。」という認識が生まれ、『理解不能な変人らしい』という評価を頂いたのだけれど、いつの間にか「結婚して子供を育てているんだからそうは言ってられないでしょ?」という思いに変換していったみたいだ。

 

結婚して子供ができても変わらない、いや、ますます変人っぷりに拍車がかかっている(ように見える)我が子とその夫。

母親はその困惑をたまに私に見せる。

 

そらさんを迎えに行ったその日、しばらくは談笑していた私たち。

(母と兄嫁と私。)

 

「それでりょーちゃんがインドでさぁ…」

 

私が亮一さんのあれこれを面白おかしく話していた時、母がこんなことを私に言った。

 

「ねぇ。りょーちゃんはどうしてインドに行ったの?なんで?どうしてインドなんかに行ったの?」

 

言い方にすでにトゲがある。

私はそんなトゲには引っかからないので、笑いながら、でも真剣に一応答えてみた。

 

「インドって予測がつかない国だからね。そういうところに身をおいて、自分がどうするか?とか日本では味わえないようなことを体験してみたいんじゃないのかなぁ。私も行ってみたいよ。」

 

実際はもうちょっと詳しく話したけれど、だいたいこんな感じの言い方をした私。

その話しを眉間にシワを寄せながら聞いていた母はいきなりテーブルに突っ伏した。

 

「わかんない!ほんっとにわかんないーー!なんで?なんでそんなことを体験したいの?お母さんにはわからないわよー」

 

私の母は少女みたいな面がある人だ。

母性も強いけれど、いつも父に守ってもらっていた箱入り娘のような面がある人だ。

毎日が平和で家族みんなが笑っていてくれればそれでいい。と思っているし、波風が立つことを本気で嫌がる人だ。

相当な怖がりだしね。

 

「ねぇ。ゆきえってほんとに変な子よねぇ?そう思うでしょ?」

 

一緒に話していた兄嫁に言う母。

 

「えー?まぁ変わってるよねぇ。あははは。でも楽しそうでいいじゃんねー」

 

兄嫁はとてもほがらかで、ちゃんと“違い”を認めてくれる女性なので笑って答えてくれる。

でも母はどうしても納得がいかないもんだからこう続けた。

 

「ほんとにどうしてこうなったんだろうねぇ。ほんとに私とお父さんの子かなぁってよく思うのよぉ。変な子ねぇ。ほんっとに変な子。お姉ちゃんもそう言ってたわよぉ」

 

そしてこともあろうかこんなことを言うのだ。

 

「そらのことが心配よぉ。どうなっていくんだろう?って。」

 

↑わりと酷くないですか?

 

私は母のその言葉を聞いて瞬時に…

 

 

 

大笑いをしました。

 

 

「あっははははは!そうだよねぇー!心配だよねー!わかるわかる!私も心配だもん!あはははは!」

 

 

私は家出をしている時に『親離れ』ができたんじゃないかと思っています。

(『親離れ』とは「親の人生と私の人生はまるで違うのだ」とちゃんと理解することだ思っています。)

そしてどんどん『家族』とか『親』という観念から解放されていきました。

『親』というのはただの観念。

『姉兄』だってそうだ。

 

そこには『母』という肩書を持ったただの1人の女性の人生が繰り広げられているだけだし、そこに何を観るのか?は私の問題。

そんな理解が深まれば深まるほど、「親だからって関係ねー」という思いが強くなっていたし、そうそうに『家族ドラマ』の舞台から降りたような気がしている。

舞台に上りたいときは上るし、観ていたいときは観るし、そこは私の自由だと思っている。

 

だからこそ母のあの態度と言葉を聞いても笑い飛ばせたのだけれど、その後驚愕の事実が判明することになった。

帰りの車中、私にモヤモヤが募る。

そして頭の中で「もっとああ言えばよかったのかなぁ…」や「あのいい方はないんじゃないの?」や「どうしてわかってくれないんだろう…」の言葉がぐるぐると巡るのだ。

 

挙句の果てにはそらさんに愚痴を言ったりして。

 

「ねー!ばぁばがね、ママのこと変な子って何回も言って、こんな子に育てられるそらが心配だ!なんて言うんだよぉ。だからママちょっとだけ悲しいんだよぉぉ。もー!」

 

44歳の女が8歳の子にいう言葉じゃねーな。

 

「え?ばぁばがママにそんなこと言ったの?いつ?そらちゃん聞いてなかったよ!大丈夫だよ。ママは変だけどそれがいいんだから。ね?そらちゃんはママが変わっちゃったら嫌だよ。大丈夫大丈夫。」

「ばぁばはひどいよ!今度そらちゃんがばぁばに言ってあげる!ママが悲しんでたよ。だからそんなひどいこと言わないでって。あと、そらちゃんは変なママが大好きなんだよって。

 

…うん…

あー…『変』は『変』なんだね…

うむ…

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なんだ?この可愛い生き物は?

 

 

私は全力で私を慰めるそらさんに「…ありがとう…がんばる…」と謎な返事をして気持ちをおさめようとした。

が、それからしばらくの間、もやもやが続いた。

 

もやもやしている自分を観る。

ジッと観る。

 

そこには「お母さんにわかってもらいたいのー!」と言っている自分がいた。

 

驚愕だ。

ショックだった。

なんということだ。

 

家族や親というものはこんなにも引力が強いのか?!!と驚愕だった。

 

でもすぐになんだか自分が可愛く思えたんだ。

「お母さんにわかってもらいたい!」と思っている自分って、なんといじらしいのだろう。と。

そして思ったんだ。

その思いをなんとかしようとするのはやめよう。と。

そのままにいておこうと思ったんだ。

慰めないし理解しようともしない。

観る、だけ。

 

そのままをあるがままにしておこう。と。

 

 

今、亮一さんからLINEでインドの凄まじい写真や動画がたくさん送られてきた。

すごい。

もうほんとにすごい。

わけがわからなすぎて、諦めるしかないような画像がたくさんだ。

『理解』なんてまったく不必要な言葉にしか思えない。

 

 

私が伝えたいことを書くね。

よく聞いてね。

 

今幸せではない原因を全て過去のせいにするのはやめようね。

親からの愛情不足?そりゃそういうこともあるだろうね。

でもあなたの今幸せじゃない原因はそこにはないよ。

過去を言い訳にするのはやめようね。

あるがままがただ起こっているだけなんだから。

トラウマ解消?

過去生を探る?

使命を知る?

そんなことどうだっていいじゃない。

そんなことより話さない?

これからどうやって生きていきたい?

あなたはどう在りたい?

今のあなたの状況は“たまたま”そうなっているだけだよ。

 

 

長い文章を最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

 

 

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難しい話しをしますね。でもとても大切な話しなんです。

 

私は毎日1人の時間を存分に体験しています。

亮一さんは元気にインドのコルカタを体験しているようです。

毎日ビデオ通話やLINEでのやり取りをしているので、なんだかインドにいるなんて嘘みたいに感じるんだ。

ふと「今の時代はすごいなぁ!」なんてめちゃくちゃ年寄りみたいな言葉が出てきてしまうのだけれど、よくよく考えたら私は今44歳で、れっきとした『おばさん』の年齢なんだと再確認したりする。

(私はいつまでたっても自分のことを若造でただの子供だと思っているので。)

 

金曜日の夜にそらさん(娘8歳。平日は寮生活のかわいこちゃん。)が帰って来たのだけれど、昨日の夕方から私の実家に1人でお泊りに行ってしまったので結局昨日も私は1人の夜を過ごすことになった。

そらさんは「お泊りに行くならママは来ないでほしい。でもママが淋しいなら一緒に来てもいいんだよ。」と私に言った。

 

「ママが淋しいなら一緒に来てもいいんだよ。」って。おい。

 

挙句の果てには「ママ、1人で大丈夫?ほんとに来てもいいんだよ。」と、頭をなでなでしながら言いやがる始末だ。

おい。

 

私はそらさんに向かってこう答えた。

 

「いいよ!ママは1人で泣きながら過ごすからぁー( ノД`)シクシク…おーいおいおいおい!おーいいおいおいおいおいーー!!」

 

大げさな泣きマネをしながら。

ほんとは全然淋しくない。

なんならちょっと気楽に感じている。

 

「ママ。一緒に来たくなったらちゃんと言ってよ。我慢しなくていいんだよ。」

 

そらさんは私をどこまでも気遣う。

そらさんは全く淋しくないんだって。

あはは…

 

平日はずっと離れて暮らしていて、週末も離れてお泊り。

それなのに全く淋しくなさそうな我が子。

それどころか私が淋しがっていないか本気で心配する我が子。

 

これ、読んでてどう感じますか?

 

 

 

どうですか?

感じてみました?

 

 

私はこう感じています。

 

よかったなぁ。

そりゃあちょっとだけ淋しさはあるけれど、そらさんがこう在ってくれてよかったなぁ。

 

です。

 

 

離れていても大丈夫。

親がそばにいなくても大丈夫。

そんな感じなのでしょう。

 

ちょっと前にそらさんがこんなことを言っていました。

 

「助けて!っていえばいろんな人が助けてくれるよ。みんな優しいよ。そらちゃん自分でちゃんと言えるもん。だからパパとママが傍にいない時でもだいじょうぶなんだよ。そりゃ淋しい時もいっぱいあるけどね。でもだいじょうぶなんだよ。」

 

私はそらさんのその言葉を聞いて、この子はほんとにすごいなぁと思ったんだ。

ますますこの子を信頼していかなきゃなぁと自戒の念にかられたよね。

(すぐ過剰に心配しちゃったりするからね。とほほ。)

 

 

話しは変わって。

今朝私は自分のためだけゴハンを作りました。↓

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間引き大根を買っておいたので(90円くらいだったかな)、葉っぱを丁寧に炒めて小さな大根のほうは浅漬けに。

昆布と鰹節で出汁をとったなめこのお味噌汁には最後に海苔をかけて。

お茶は東城百合子先生のところで買った『山の晩茶』。(このお茶めちゃくちゃ美味いの!)

私はこの食事をめちゃくちゃ丁寧に味わった。

 

舌に感じる“これ”。

口の中で感じる“これ”。

脳内に響く咀嚼の音。

『美味しい』という単純な単語で片づけてしまいそうな感想を無理やり引っ込めて、

「『美味しい』なんていうもんか。」とムキになってみたりして。

 

大根の葉っぱの炒め物の味はどんなだろう。

『大根の葉っぱの炒め物』だなんて思わないで食べてみよう。

なめこのお味噌汁ってどんな味だろう。

なめこのお味噌汁』だなんて思わないで食べてみよう。

 

舌に感じる“これ”を全身で味わう。

 

「あーこれを“苦い”と名付けたのかもしれない。」

「あーこれを“しょっぱい”と名付けたのかもしれない。」

「あーこれを“甘い”と名付けたのかもしれない。」

 

そんなことを感じながら食べる。

 

私はよく『美味しい』ってなんだろう?と考えるのだけれど、本気で美味しいものって『あーー!美味しい!』ってすぐ反応するんだよね。

身体がね。

そして全身の満足感が得られる。

 

コンビニのものを食べることもたまにはあるのだけれど、その時は「あーうん。まぁ…ねぇ…」という反応だ。

そして不思議と満たされない。

私はいつも「プラッチックを食べているみたいだなぁ」と感じる。

(まぁでも食べるときは食べるけどね。)

 

これを読んでくれている人にはぜひ一度試してみてもらいたいのだけれど、自分がどれだけ『口だけ』で食べているかを知って欲しいなぁと思う。

自分がどれだけ『腹だけパンパンにしたい』で食べているかを知って欲しいなぁと思う。

 

人間の感覚ってほんとにすごくてさ、『味覚』って“口だけ”の問題じゃないんだよ。

『味覚』って全身で感じる感覚なんだよね。

 

で、結局のところ、私は私のためだけに作ったゴハンを味わってこんな感想を持ちました。

 

 

「あー美味しかった!」

 

 

あはは。

 

 

 

前に亮一さんが言っていた言葉をよく思い出す。

 

「俺はなかなか“竹”を観ることができないんだよ。」という言葉。

 

にわーし(庭師)のお仕事から帰って来た亮一さんとお話ししていて出てきた言葉だ。

その日は竹をたくさん切ったんだと言っていて、2人で『竹』のお話をしていた。

亮一さんは少しだけ肩を落としてこう言いました。

 

「今日は竹をたくさん見たんだけどさぁ。俺はなかなか“ちゃんと”『竹』を『観る』ことができないんだなぁと思ったんだよ。」

 

私はこの言葉がわかりすぎるくらいわかる。

『竹』を見るとき、どれだけ自分の中にある『竹』の概念なしに観られるか。

いつのまにか「竹とはこんな感じ」という思い込みで見ているのが私たちだ。

『竹は緑だ』と思いませんか?

そこをよく観るように意識化するんです。

 

「これはなんだろう?」

「ほんとに竹は緑か?」

「緑って何色だ?」

 

と。

 

難しい?

難しいよね。うん。

 

これをやるとね、私たちはどれだけ『思い込み』で生きているか?がわかるんだ。

 

『美味しい』ってどういうことだ?

『竹』は緑か?

『緑』ってどんな色だ?

 

言葉の前、名前以前、そこを感じてみる。

 

ぜひやってみて。

面白いから。

そこにはすんごく大切な“気づき”が隠れているから。

 

さて、そろそろそらさんを迎えに行ってこようかな。

「まだ帰りたくなーい!」とか言われんだろうなぁ。

とほほ。

 

 

最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

 

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『淋しい』を感じている私の話しをちょっと聞いてくれる?

 

亮一さんが今朝無事にインドのコルカタに着いたようです。

インドに入る前、亮一さんはベトナムで一泊していたのだけれど、急なフライト変更があり、その変更メールに気付かなかった亮一さんは自分の乗るはずだった飛行機を逃してしまった。

旅の始まりから『THE・旅!』な出来事に遭遇していて、聞いているだけでワクワクした。

結局フライト変更が受け入れられ、無事にコルカタに着いたのだけれど、こういうことが起こると亮一さんの『生命力』がぐわっ!と出てくるからゾクゾクする。

(もちろん心配もするのだけれどね。)

 

さっき亮一さんとメッセンジャーのビデオ通話で少しだけお話しをした。

亮一さんはちょっと風邪気味で体調がすぐれない顔をしていたけれど、ニヤリと笑いながらこんなことを言っていた。

 

「インドね、最高だよ。もうね、最高。今まで行ったアジア諸国とは全然違うんだよ。

来るまでたくさんビビってたけど、もう全然!やっぱ来てみないとわかんねぇよなぁ。」

 

どうやらインドは最高らしい。笑

そして「やっぱ来てみないとわかんねぇよなぁ。」の言葉に私は「うんうん」と深く頷いたのでした。

(行く前にさんざんビビってたのはいつものことだからね。笑)

 

風邪気味なのが唯一の気がかり。

なるべく体調を整えてから思う存分冒険をしてもらいたいなぁ。

 

さて私の方はと言いますと。

私は私との約束を必死で守っている毎日です。

 

どんな約束をしたかというと、これ。

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亮一さんに教えてもらった淹れ方で、毎朝自分のために珈琲豆を挽いて淹れる。

これが私が私にした約束。

 

『私は私を大切に扱う』

 

約束はこれ↑なんだけれど、具体的な約束としては『自分の為だけに丁寧に珈琲を淹れる』こと。

 

私は随分長い間『私』を蔑ろにしてきたので『私』からの信用が薄い。

「どーせ約束したってすぐ破るでしょ!」といつも言われている。私から。

私は『私』の信用を取り戻したいので、自分とした約束はちゃんと守ろうと改心しているのです。たぶん真剣に改心し始めたのは6年くらい前からかな。

 

「今までたくさん約束を破ってごめんね。」

「今までちゃんと声を聞かなくてごめんね。」

「一番大切な人の声を聞かないで外側の声にばかり気をとられていたねぇ。

ほんとごめん。」

 

そんな言葉をよく繰り返している。

 

私が私とした約束を守れなくて、どうして生きていけようか。

私が私を大切にできなくて、どうして生きていけようか。

 

今朝も私はできるだけ意識的に、丁寧に珈琲を淹れた。

気を抜くとすぐに雑になる。

『自分のためだけに珈琲を淹れる』に慣れていないから。

私が私を雑に扱うことが当たり前の事だったから、なんだか居心地が悪いのだ。

 

 

昨日の夜、私は部屋に一人で座っていた時「淋しいなぁ…」と感じていた。

その「淋しいなぁ…」を私は逃さない。

「淋しいなぁ…」を全身で存分に味わう。

そして見つめる。

私は私が『淋しい』と名付けている“それ”がどんなものなのかが知りたいからだ。

 

私は私が『淋しい』と名付けている“それ”を全身で感じていると、あることに気付いた。

 

「あぁ…『淋しい』を感じられるってことは『淋しくない』を知っているからなんだよなぁ。」

 

と。

 

これ、当たり前のことを言っているって思います?

私はつくづく「すごいなぁ」と思ったんだ。

 

『淋しい』を感じることができるのは“淋しくない状態”が在ったからなんだよね。

 

私は『淋しい』も『淋しくない状態』も感じられる私ってなんてすごいんだろう!!と嬉しくなったんだ。

『淋しい』を感じているのに『嬉しい』って、ますますヤバいな。私。笑

(でも『淋しい』は嫌だと感じていたりもするよ。)

 

今夜も私はきっと淋しくて、そして嬉しいのでしょう。

明日の朝起きたら、私は私との約束を必死で守ろうとするのでしょう。

 

誰が何と言おうと、私は私を大切にするんだ。

私は私の思いに気付いていくんだ。

そして私からの信頼を得るんだ。

 

今日も私は私を冒険しています。

亮一さんを心から応援しながら。

そらさんに心からのエールを送りながら。

 

今日のあなたはどんな感じでしたか?

どうかあなたがあなたを大切にできていますように。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

 

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