藤山家においでよ

藤山家ってこんなとこです。

家族。夫婦。親子。どうありたい?

 

亮一さんが久々にブログをアップした。

私は毎回亮一さんがブログを書くとワクワクする。

「どんな言葉を紡いでいるのかなー。どんな思いを表現してるのかなー。」と。

 

そんな亮一さんのブログが相変わらず素晴らしかったのでシェア。

yamafuji70.hatenablog.com

 

相変わらずの嫁バカですが、きっとそれだけじゃないと思うので。笑

ぜひ読んでみて欲しいです。

 

亮一さんはこのブログで家族や夫婦や親子のことをサラッと書いている。

 

今の僕に必要な事は、時として不本意に自分を縛ってしまう境界線を必要に応じて使うルールに戻していく事であり、本来の「自由さ」を自らに思い出させていく事である。

 

それは娘の山梨行きを希望した理由の一つにもなっていて、空には制約ではなく、自ら選択できるルールを身に着けていって欲しいと思う。

そして、そんなルールを選択する個人が集まった家族、夫婦、親子の関係を目指したい。

 

 

観念が時に制約になってしまい、自分を縛ってしまうことになりうる。

観念だと知りながら、制約ではなく、ルールとして自ら選択できるようになってほしい。

そらさんへの希望で有り、それは今の自分にも必要なことだと思うと亮一さんは言う。

そしてそれができる個人が集まった家族、夫婦、親子…

いつでもそれを目指していきたいと言う。

 

生まれたばかりの赤ちゃんはなんの観念もない。

「自分」という観念もない。

「ママ」や「パパ」なんていう観念ももちろんない。

 

成長するにしたがってたくさんの境界線を知っていく。

観念が増えると境界線が増えるのです。

 

国境なんて線はないのに、ただ土地が続いてるだけなのに、そこには見えない境界線が表れる。

 

人間が心地よく、共に仲良く暮らしていくために必要な観念、ルールがある。

でもそれが自らを縛って苦しんでしまうことも多々ある。

 

結婚したらこうでなくっちゃならない。

奥さんとしてこれぐらいのことはできなきゃならない。

旦那さんはこうあるべきだ。

夫としてこれくらいのことはできなきゃならない。

母親はこうでないといけない。

子どもは子供らしくあらねばならない。

その「子供らしく」とはこうである。

宿題は「ちゃんと」やらなきゃならないことである。

親子とはこうあるべきだ。

 

観念が制約になると「べき」や「ねばならない」がついてくる。

 

それ、ほんとかな?

それ、ほんとに家族って言えるかな?

それが夫婦なの?

それが親子なの?

 

ほんとはなんの制約も決まりもないけどさ、みんなが楽しくいられるようなルールは採用しようかねー(*‘∀‘)

 

そんな感じ。

 

結婚したって誰も相手を縛ることはできない。

親子だからといって子どもを思い通りにすることなんてできない。

逆もまたしかりだ。

子どもだからと言って母親や父親を思い通りにすることはできない。

 

父親や母親、夫、妻、娘…

これは全て観念だ。

そんな肩書き?に縛られるのは誰だって嫌じゃない?

でも社会という場ではその立場でふるまわなければいけないルールなら、

その時はそのルールを採用しましょ。

「家の娘がお世話になっております。」と言ったほうが丁寧で、感謝が伝わるならそのルール採用しましょ。

「家の主人がお世話になってます。」って言った方が双方気持ちいいなら、そのルール採用しましょ。

 

その都度「制約」ではなく「ルールを選択」できる個人でいましょ。

そしてその感じで話しましょ。

 

そんな夫婦で、親子で、家族でいたい。

 

縛られるんじゃなく、自分で選ぶ。

ちゃんと冷静に選ぶ。

 

そんな家族でいたいなーなんて思ってます。

 

藤山家、これからどうなっていくのかなー。

楽しみでなりません!

 

ではまたー。

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この写真好きー!