藤山家においでよ

藤山家ってこんなとこです。

過去の私と今の私

年末ですね。

 

年末といえば大掃除です。

 

はい。

 

私は片づけが大の苦手です。

 

でもね、やる時はやるんです。

 

昨日、家の収納スペースを片づけました。

 

本が山盛りだったので、ずーーっとずーーっと亮一さんと

「片づけなきゃねぇ…」「そうだねぇ…片づけなきゃねぇ…」

と言い合っていたのです。

 

で、昨日、やっとやる気になったのでいざ!と向かい合ってみました。

(亮一さんは逃げました。笑どっかにコーヒー飲みに行っちゃった。笑)

 

そしたらね、むかーしむかし、私が25歳か26歳の時に記者をやっていた

雑誌が出てきたのです。

 

読んでみて私は

 

「うおーーーーーー!!!」

 

となりました。

 

この「うおーーーーー!!」は何かというと…

 

 

身をよじりたくなるような

 

恥ずかしさ

 

です。

 

 

売れない雑誌でねぇ…

小さな事務所でねぇ…

 

でも私は「やりたい!!書きたい!!取材したい!!」の思いで挑んでいました。

 

いわゆる「高級クラブ」のホステスをやった後です。

ホステスの時には割とな月収だったのを捨ててまでやりたかったんだよね。

(小さな事務所?出版社?だったのでめっちゃ給料安かったのです…)

 

当時の私は『差別』という言葉にすごーーく反応してました。

自分もめっちゃいろんな差別してるくせに、そんなことにすら気付かず

(綺麗だとか綺麗じゃないとか、男であるとか女であるとか、太ってるとか痩せてるとか…そのジャッジしてる時点で差別ではあるよね。という意味ね。)

 

「差別ってなに?!なんでみんな差別すんの?!意味わかんないっ!!」

 

と一人で勝手に憤っていたわけです。

(ウザいなー)

 

そんなこんなでこの記事です。

 

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『問・題・意・識』  って…

 

むっちゃダサくないですか?!笑

 

ウケるっ!!

 

しかも4ページにわたる記事!!

 

いかに少人数でやっていたのかが伺えますねぇ…

 

この記事は体験ルポ。

電動車椅子で生活をされている方に一日密着して行動を共にしてみた様子を書いていたりします。

 

まー駅の移動がめんどくさくてねぇー

 

電動車椅子で移動って、ほんとに大変なんだなーって実感しました。

 

そんでここ。

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「差別」というキーワードにめっちゃこだわってるのがわかる。

 

「心のバリアフリー」について書いてるね。

 

黄色いTシャツに身を包み、いかにも感動を誘う様な映像を提供してきた某TV番組が根付かせてしまったと思われる「車椅子でガンバッテイル人」「目が不自由なのにクジケナイ人」という意識ではなく、障がい者だから、高齢者だから、「助けてあげなくては」という特別な善意ではなく、目の前で人が転んだら手を貸す、「大丈夫ですか」と声をかける、というような当然するだろう行為と同じことだという意識、感覚であることが「心のバリアフリー」なのではないだろうか。

 

もちろん手を借りた側は「ありがとう」の言葉が当然であり、ハンディキャップをおっているから「助けられて当然」という思いを持つことは自らで特別視を望んでいることに繋がる認識をしてほしい。

手を貸す側は当たり前の行為であると認識し、手を借りる側は感謝をする。

             ~中略~

国民の意識の向上が施設改善よりも早急に必要だと感じる。

 

熱いっ!!

 

熱すぎるぜっ!!

小杉幸江!!(小杉は私の旧姓です)

誰目線だよっ!

「国民の意識の向上が…」

恥ずかしいっ!!

 

 

私は小さいころからあの黄色いTシャツのTV番組が嫌いでね。

(あ、好きな方がいたらごめんなさい。あくまで好みの問題ですからね。)

書いちゃってますね。記事に。

アイロニーだなぁ。幸江ってば。笑

 

関西地区で生活してみてびっくりしたことは街のそこかしこに「差別」がごろごろしてること。

(部落問題とか韓国の方たちとか朝鮮の方たちとかちょんの間とか人身売買的なこととか…)

そしてその、いわゆる「差別」を“されている側”も「差別されているからこその権利」

みたいなものがあって、もう自ら「差別上等!」みたいな感じになっちゃってたりしてて。(当時の私にはそう感じたのです)

 

例えば家賃が3000円!!くらいの公団住宅みたいなのがズラーッと建っている地区があったり、光熱費が免除されてたり…もういろいろ。

 

25,6歳の小娘の私はすんごくびっくりしちゃってさー

 

人間が人間をあからさまに差別するってことを(しかも大人たちが!)目のあたりに初めて見たんだ。

そして差別されてる方も「権利だー!」みたいになっちゃってるとこもほんとにびっくりしたんだよね。

同じ人間なのに。

しかも部落問題とかだと「えた、ひにん」とかの言葉もでてきちゃったりしてさー。

いつの時代のこと引っ張ってんだよ!とか思ったりしたわけですよ。

 

当時のことを思い出すとその時感じた「憤り」をリアルに感じることができる。

 

そして驚きすぎて(ショックを受けすぎて)一週間くらいお部屋に引きこもってたりしたことも鮮明に思い出せる。

 

でもね、不思議なことにその“過去の自分”がまるで物語に出てきた人みたいに思えるんだ。

紛れもない“私”なんだろうけど、「あーそういう人いたなー」みたいな感じ。

そしてそんな“そういう人”を「肩の力バリバリ入っちゃってるけど、なんか一生懸命で健気なヤツだなぁ~」とか思ってたりするわけです。

(身悶えするほど恥ずかしかったりもしますけどね。笑)

 

“過去の私”って、いつでも思い出せるけど、思い出すとまるで別人みたいだ。

そしてその“別人のような自分”を私は「割といいヤツだな」と思える。

 

昨日の私ももういない。

さっきの私ももういない。

 

あるのはただの“記憶”だけだ。

 

「過去は変えられない」なんていう人もいるかもだけど、「記憶」は変えられるんだよ。

書き換えられるんだよ。

 

「差別」に憤ってた私。

熱い記事を書いてた私。(未熟でお恥ずかしいですが)

記事を書いただけで“悦”に入ってた若い私。

 

私は私を「好き」になっていったら『過去の記憶』が変わりました。

思い出したくもない!!くらいの出来事が

『思い出せる全ての記憶が愛しい』に。

 

 

てことは『過去が変わった』んだよ。

 

仕組みがわかればそうなれる。

 

 

何年も前のこと。

亮一さんがこう言ったんだ。

 

「トラウマなんてないんだよ」

 

私はその言葉を受け入れられなかった。

 

「私さー!その『トラウマ』ってやつですんごく苦しんでるんですけどっ!!( `ー´)ノ」ってね。

 

今ならわかる。

『トラウマ』っていうストーリーツールを取り上げられるのが嫌だったんだね。

 

乱暴に聞こえるかもしれないけど

『トラウマ』なんてものはない。

今の私はそう実感しています。

 

トラウマも囚われもコダワリも計画も掲げるような目標も…

 

ない。

 

ただただ純粋な“私”にもどっていくだけなんだね。

 

そう“今の私”は感じています。

 

これが『ゆるむ』なんだと思っています。

 

ゆるみたい人ー!!

 

よかったらセッションに来てくださいね!

 

毎日平和で幸せですよー!

 

お話ししましょ!!

 

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