今、私のダンナさんである藤山亮一さんがアジア一人旅に行っている。
日程も決めず、どこに行くかも具体的には決めず、そして“目的”もなく。
今はマレーシアのペナン島にいるようだ。
昨日18時頃、バスとフェリー乗り継いでペナン島に着きました。
そろそろ東南アジアの雰囲気に飽きるのかなぁ〜、
と思い始めた。が、
最高❗❗
飽きるどころか
ドンドンハマります!歩きまくりです!
ワクワクまくりです!!
町が活きてる!!ご飯が活きてる!!
その日その日を活きてる!!
なんだか切ないね。
1人旅ってそういうところあるもんね。
でもその切なさがなんともいいよね。
何度もこのブログで書いてるから“うるせーよ!”と思うかもしれませんが笑
私は藤山亮一さんのコトが大好きだ。
きっと永遠の片思いなんじゃないかと思うくらい好きだ。
『結婚』というカタチをとって私の『ダンナさん』になったけど、『私の夫』という目で見たことは多分一度も、ない。
『ダンナさん』になっても『子供(そらさん)のお父さん』になっても
藤山亮一さんは藤山亮一さんだ。
当たり前のように聞こえるかもしれないけど、これって結構重要なことだと思う。
『もう結婚して家庭も持ったんだから~』
『もう子供のお父さんお母さんになったんだから~』
『もういい歳なんだから~』
結婚して、しかも子供を持つと、途端にいろいろ制限がかかる。いや、かかる“気が”する。
私たちはその見えない制限、いつの間にか作っていた“ワク”にまず気付き、そして外していくという作業を結婚してからずっと夫婦でやり続けている。
まだまだその作業の途中だ。
特に私は“ねばならない”や“こうあるべきだ”がとても多い女だった。
自叙伝を読んで頂けるとわかると思いますが、とてもめちゃくちゃな過去で、常識なんかしらねーし!みたいな日々を送っていたにもかかわらず、“結婚”や“夫婦”や“母親”なんつー言葉にすっかりやられてしまっていたのだ。
『結婚して嫁になったんだから、家事をちゃんと“やらねば”』
『子供を産んで母親になったんだから真面目に育児を“やるべきだ”』
なんつって。
できるわけねーっつの。
しかも“ちゃんと”てなによ。
“真面目”ってなんだよなー。
まー辛かったわ。
そんな時、藤山亮一さんはいつも冷静に見ててくれて、冷静に話を聞いてくれた。
“嫁”としてではなく“ママ”としてではなく『ゆっきぃ』として。
そして亮一さんはいつもこう言っていた。
『俺は俺だよ。変わらないもん。』
そりゃそーだ。
そしてこんなことも言っていた。今も言っている。
『そらのコトも大事だし、ゆっきぃのコトも大事だけど、俺は俺が一番大切だよ。』
これ。
この言葉。
すごくいいと思うんだよね。
『ゆっきぃも一番自分を大切にした方がいいよ。それが俺の幸せだし、そらも幸せだと思うよ。』
私は“自分を大切にする”がとことん苦手な女だったので、この言葉を言われてもなかなか腑に落ちなかった。
たぶんいまでも落ちきっていない。たぶん。
何度も何度も夫婦でそんな話しをして、そして今。
私は“自分が一番大切だ”と少し思えるようになっている。
藤山亮一さんは一人旅に出て、私は文章を綴っている。
なんだかこの時間、いいなぁとか思うわけです。
そらさん(5歳の娘)のコトを私はよく『そら先生』とよびます。
私にいろんなことを教えてくれるからです。
赤ちゃんのときからよくそうよんでました。
名づけ親は亮一さんです。
そら先生のお陰で私はいろんなことを『あきらめる』ことができた。
この『あきらめる』はネガティブに聞こえるかもしれなけどそうじゃなくて。
子供って、“こうあるべきだ”や“こうでなければならない”の思いが通用しないんですね。
全くもって思い通りにならない。
もう『あきらめる』しかない。
手放すしかない。
開き直るしかない。
『もー!できないもんはできん!どーせ私はだらしない女だよ!すいませんねー!すいませんねーだ!』
って…
ん?
あれ?
気付いたら、誰もそんなコト言ってなかった…
そらさんもニコニコしてる。
亮一さんなんて気付いてもいない。笑
そんなコトが何度もあった。
『そらはゆっきぃにとことん“あきらめる”を教えに来てくれたんだねぇ( ̄ー ̄)ニヤリ』
亮一さんの言葉。
そのとおり。
そんなそら先生。
5歳の今はとーーってもおしゃべり。
そしてとーーーっても良い子。(←親ばか)
そら先生が先日こんなコトを言った。
「ねぇママ。親は子供が一番大切ってほんと?そうなの?」
うーん…
私は少し考える。
「なんで?誰がそんなコト言ってたの?」
「しまじろうのテレビで言ってたよ。親は子供以外に大切なものなんかないって。」
ほほー…
これは洗脳だぞ。しまじろう洗脳だ。
こりゃまずい。
「うーんとさ…子供も大切だけど、一番大切なのは“自分”なんじゃないかなぁ。
そら先生は何が一番大切なの?」
「うーんと…ママもパパもお友達も大切だよ。」
「え?じゃあ自分は?」
「うーんと…大切!自分のこと大切!」
「わーよかった。パパもママも自分のこと大切ー!そらちゃんのコトも大切ー!」
「わーいわーい!」
って…笑
どこまで伝わったかわかりませんが、そんなやりとりをしている日常です。
私はそらさんのコトを“育てている”という意識がありません。
“育てられて”います。
でも、たまに“母親”の立場を利用して、そらさんをコントロールしようとしてしまう時があります。
それを私は『大人の理不尽な特権』とよんでいます。
「ママはこれから『大人の理不尽な特権』を使います!」
と宣言したりすることもあります。笑
無意識のうちに『理不尽な特権』を適用してしまうときがあるのですが、それに気づいた時点でなるべくすみやかに謝るようにしています。
「ごめん。そら先生。ママは自分の都合を優先してしまいました。すいません。」
てな感じ。
そら先生は朝の支度がすんごく遅い。
『早くしろー!』と言わなきゃたぶんすぐ夕方になってしまうくらいのんびり屋さんだ。
だから『早く!早くー!』と何度も言う。
言いたくないけど。
でもこれも“私の都合”だ。
なのでなるべくこう言うようにしている。なるべく。
「ママが早くしてほしいのでご協力お願いしまーす!」
こう言うのは、それの方が私にとって心地いいから。
そら先生はとっても甘えん坊のところもあるけど、とっても独立している。
もうすっかり一人の立派な人間だ。
藤山亮一さんを『私の夫』としてみたことがないように、私はそら先生を『“私!の!”娘』だと
思ったことは『あんまり』ない。
対等。
子供だからまだ出来ないこともある。
だからそこのお手伝いをさせて頂いてるだけで、もうすっかり、というか、産まれたときから対等。
それをすごく感じる。
そしてそうありたい。
私は大好きな人がたくさんいる。
藤山亮一さん大好き。
そら先生大好き。
大好きなお友達もいるし、坂爪さんも大好きだし。
で、『大好き』って一体どういうことなんだろう?ってさっき考えてたんだ。
大好きだから、その相手にも私のことを『一番大好き』って思ってもらいたいって思っちゃう。
その感情はある。
でもその大好きな相手に『私のコトを一番大好きって思って!』とは絶対に言えない。
大好きな人の感情をコントロールしようとする、強要する、なんて…
想像するだけで泣けてくる。
あー…
そうかぁ…
『大好き』って、ほんとにその人が“存在”してくれてるだけでいいやって思えることなんだ。
できれば“幸せそうに存在”してくれてるともっといい。
そこにたとえ“私”が介入してなくても。
へー…
そっか…
なんかやっとわかった気がする。
藤山亮一さんがマレーシアで楽しそうにしている。
そら先生が幼稚園で楽しそうにしている。
よかった。
あーよかった。
私は私を大切にしよう。
もっともっと『よかった!』と言えるように。
なんだか思ったことをツラツラと書いてしまいました。
読んでくださってありがとうございます!
読んでくださってー
よかった♡
また自叙伝も書きます!
すぐに!
よかったら読んでくださいね。